ベタとメタ

若い人はすぐ型破りをやりたがるけれど、
型を会得した人間がそれを破ることを「型破り」というのであって、
型のない人間がそれをやろうとするのは、ただの「かたなし」です

中村勘三郎


故・十八代目 中村勘三郎の言葉だが、とてもいい言葉だと思う。
基本が出来ているからこそ、その基本から外れた事をやれる。
基本も出来ずに、外れた事をやると空疎で中身が無い。
上辺の真似ごとにしかならない。


ミステリには“コード”と呼ばれるものがある。
平易に言えば「お決まり」とでもなるか。
例えば「密室」「嵐の山荘」「雪の上の足跡」
そういう「古典的ミステリで見かける決まり事」を“コード”と言う。
時代は変わった。
時代が変われば考え方や捉え方も変わる。
ミステリは過去の黄金時代に書かれた古典から“コード”と言うものをあえて意識する事で“コードを踏襲しながらもそれを逸脱する”新本格と呼ばれるミステリが多く書かれた。


日本のお笑い文化ってのはとても進化していると思う。
コテコテのお笑い...コード型のお笑いは“ベタ”と呼ばれる。
ごめんくさいこれまたくさい、あ~っくっさ、月は雲間に隠れたし、雨戸も閉めたしガキも寝た→おまいさん今夜もかい?→あったぼうよ!、誰がカバやねん。
吉本新喜劇に見られるコード型のベタな笑いは大阪のお笑い文化の中で育成され洗練された。
そして、そんなベタがあるからシュールがある。
漫才は二人の人間が舞台に立って話し演じるセカイを客に見せ、そこにおかしさを入れ込む。
セカイの中で、常識から振幅率が小さければベタだし大きければシュールになる。

アルコ&ピースの「漫才師を辞めて忍者になって巻物を取りに行く」ネタは「舞台の上でネタをやっている漫才師」をセカイの中に描いてみせ「漫才師を辞めて忍者になって巻物を取りに行くなんてどういう事だ?」と説教をする。
本来ならボケもツッコミも忍者のセカイで同じく行動する筈が、そのセカイに入らないまま説教をされてしまう。
この構造を“メタ(メタフィクション)”という。
セカイがあり、セカイを見る目線がさらにセカイの中にある入れ子構造。
作中作とも言う。
アルコ&ピースのネタで言えば
ネタ<漫才師<忍者(ネタの中のネタ、作中作)
とでもなるか。
本来であれば漫才を行う漫才師はネタの外に居る筈なのに漫才師もネタの中に含まれてしまう。
ネタの筈の忍者を真剣に受け取って説教を始める漫才師、と言うネタ。


ミステリで言えば、
殺人事件がある、がその殺人は主人公が書く作品の中で行われていてある時現実世界で実際に殺人事件が起きる、がそれらはあくまで作者が書いた物語の中の話。ミステリを書いた作家が実際に殺人事件に巻き込まれると言う作品を書いている作家が本当に殺人事件に巻き込まれる、が...。
ミステリは自覚的に、客観的な目線で作品をみてきた。
コードがあるからこそ縛られ、コードを利用し、コードを否定する。
だからメタミステリや、コードを批判・揶揄するようなアンチミステリなども書かれたりする。
中井英夫「虚無への供物」、竹本健治「匣の中の失楽」「ウロボロスの偽書」、積木鏡介「歪んだ創世記」東野圭吾「名探偵の掟」etc...。

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ベタがあるからシュールがあり、メタが出来る。
ベタが出来ないのにシュールをやり、メタをやろうとする。
だから上っ面だけの薄っぺらいものしか出来ない。
「型」と言うものには伝統と言うか歴史と言うか物語がある。
それが成立するまでに何人もの人間の思考や行動や事件があった。
その果てに「型」がある。
「それベタやなー!」
ベタになるまでに何十人も何百人もやってきた王道。
だからこそベタと呼ばれる。
そのギャグが、お笑いがベタと呼ばれる定番になるまでに歴史がある。


最近、面白い笑いが減った気がする。
いや、減ったのではなくって面白いが露出が無いだけなのか。
最後は島木譲二でお別れです。
うーん、チューイングボーン。