ひとにやさしく(雑文)

・609:【戯れ言】正しさの判断基準とは?の巻/真☆煩悩の赴くままに
http://hirosano-bonno.blogspot.jp/2013/09/609.html

ある事柄を「正しい」とする判断基準ってヤツが、どんな手段や方法や言い分であれ、結局は最終的に自分が正しさを導き出すために最適だと考えている方法が正しいと思い込んでるから、その結論なり結果が正しいって思ってるってことなんじゃないか?
よくチャイムが鳴って玄関に出てみると「神の教えを云々」なんて人が来てて「いや、ウチはそーいうのいいですから」と、つっけんどんに追い返したりする。

でも昔は科学じゃなくて、人間の拠り所は宗教だった。
今は科学を信奉してて(それすら薄れつつあるが)「科学的に」といえば説得力があるし、錦の御旗になる。
昔なら「神は言いました」が絶対的。

そういう価値観を自然と取捨選択して日々過ごし生きてるし、そのクセ人間は(特に日本人は)深くも考えないから「神とか仏とか胡散くせぇ」と言いながらも正月は初詣に行くし、合格祈願をし、お守りをつけて、神前なり仏前なりで結婚式を挙げ死んだら葬式をやる。
どうしてかと言えば科学には儀式が無い。
儀式は、人間の精神にとって必要なだけで科学的には必要としない。
「科学的に1月1日には初詣に行くべきである」
なんて言う証明はされて無いし、そもそも1月1日を「年頭」にする理由もない。


閑話休題。
そうやって自分の価値観を環境や教育、交遊、学習し、幼少期から「価値観」を作り上げる。
で、その「価値観」を基準に物事を判断する。
今やネットが価値観の基準になっていて「ソースを示せ」と言って過去ソースがあればそれが正しいなんて事になったりもする。
ggrksは至言で、Wikipediaが聖典。

生まれた所や皮膚や目の色で いったいこの僕の何がわかるというのだろう

青空/THE BLUEHEARTS

日常、現実世界で生きていて全く見ず知らずの人とそれぞれの価値観を交換し合う機会は少ない。
「いや、どうも始めまして」
「どうもどうも。ところで原発っていらないですよね」
「え?!いやそんな訳ないじゃないですか!」
「は?そんな事言ってるからオリンピックだってね!」
「オリンピックは関係ないだろ!!」

...道端で、他人とこんな話を交わす事はまず無い。
だがインターネットは違う。
全く違う価値観を持ったどこかの人間と、文字によって思考を交わす。
だから炎上もするしバカも見つかる。

何事にも正解は無い。
その時代の価値観に沿って一番準じた答えが「正しい」とされる。
しかしそれぞれが認識する価値観は当然違う。
「個人が信じる価値観」よりも「大多数が信じる価値観」の方が正しいとされる。
しかし「ある程度の人数が信じる価値観」があるならそれらの集団にとっては正しい。
「ウヨク」にはウヨクの価値観、「サヨク」にはサヨクの価値観。
「新興宗教の教徒」には拠るべき教えが価値観。
「テロリスト」にも自身らを正当化する思想が存在する。
それらがお互いに話して理解しあえるわけもない。
なにせ自分の価値観を補強する材料は、それぞれのところにそれぞれに存在する。
材料があるからこそそれらの思想は出来上がったんだから。


でも誰も自分を疑わない。
自分は正しい。
人間は自分の思考が正しくないと思えないように出来ている。
完全に自分の思考の根本から疑問を抱いて、根底からひとつひとつ改めるなら悟りでも開ける。
そういうか細い己の正当性に頼らなければならないからアホでバカで愚かしい。


お互いに人は判りあえない。
でもだからって「判りあえなくていいっすわ」じゃあ社会が成立しない。
だから
「人にやさしくしましょう」
そう訴える。
やさしさってのは理解しあうこと。
お互いにやさしくし合わないなら、社会なんて成立しない。
誰もお互いに無関心、その究極は社会じゃなく個人の集合になる。
社会的弱者は排除され、死ぬしかない。


楽に生きるなら誰かの事を拒否して、否定して、見下して生きてればいい。
そんな連中は、ネットにゴロゴロしてる。
悪口を書きこんで見下して、バカにして自分を保ってる。
愚かだが楽な生き方。
そういう人にやさしさは届かない。


もちろん、こういう考え方も「正しい」とは言わない。
ただ人にやさしく生きるのは大変だなと思うし、ウチは今日もあらゆる他人を見下してバカにして生きて行こうと思います(自覚的にやるのが一番性質が悪いなぁ)。