宮崎駿の引退記者会見の意味

宮崎駿引退のニュースを受けて色々なところで色々なエントリーが書かれた。
「この世は生きるに値するんだ」って言葉がカッコいい!とか後継者問題はどうなるんだ?!とか「さんざ辞める辞めるサギやってきたからな」とか。
ただ個人的にそーいうものを見ても何かしっくりこない、と言うか何か違和感がずーっとあってそれが言語化出来ずにいてウチでも宮崎駿関連の記事を書いたけど結局心象とか印象みたいな漠然としたものだけを書いて不完全燃焼で終った。

先日、押井守のメルマガで誰とは露骨に言わず「東小金井の巨匠」として

第24回:砲弾(1)「いんたい」
(中略)
僕の知る限り、洋の東西を問わず「引退した映画監督」なるものは存在しませ
ん。
「引退宣言」を発した映画監督もいませんし、ましてや「引退会見」なるものを開いた監督も存在しません。
 なぜなら――映画監督にとって、映画は「撮らせてもらえなくなる」という事態はあり得ても、「撮らない」という事態は存在しないからです。
「撮れない」「撮らせて貰えない」映画監督はこの世にゴマンと存在しますが、それは様々な理由によって―高尚すぎたり、予算がかかりすぎたり、もっと端的に才能が無かったり――観客が入らず、カネにならず、それゆえに仕事の依頼がなくなっている状態であるに過ぎません

http://ch.nicovideo.jp/oshimag/blomaga/ar344041


これを読んで、なにやらすとんと落ちた。
あぁ、そういう事か。確かにその通りだな、と。

宮崎駿は確かに巨匠でありアーティストでもあった。
しかしジブリの「顔」でもある。
それが「引退」を口にするのは、今までの「やめる辞める詐欺」を見てもそうだがアーティストであり個人だからこそ許されてきた。
もし会社の社長が辞める辞める詐欺をやられたらたまったもんじゃないし、会社としての信用も落ちるだろう。
逆にジブリのようなお抱えの技術・技能集団が「スタジオジブリ」として名が知られ、その長として「巨匠」の名前が冠されているからこそ今回の「引退会見」はあったんだろうな、と合点がいく。
会見は宮崎駿自身のためでは無く「ジブリの為」だったんだろう、と。
個人レベル(アーティストとして)で「短編は撮る」
しかし技能集団ジブリを率いての長編は撮らないと明文化する。
会見によってジブリ宮崎駿と切り離された。
随分と政治的な会見の意味と真意。
そして切り離されたジブリがどうなるかって話が自然と持ち上がる。


・【緊急レポート】岡田斗司夫がとことん「宮崎駿引退問題」を考える!!
http://blog.freeex.jp/archives/51397045.html
岡田氏の宮崎駿引退会見の読み方も面白いけれど。

おそらく、落としどころは。
 宮崎駿は「長編映画から引退する」と言っている。ということは、短編映画は作るわけですね。
 これはつまり、「これまではジブリ美術館じゃないと見れなかった短編アニメを、ここから先、ジブリアニメの冒頭部に付ける」ということをやるんじゃないかと思うんですよね

SDガンダム的な位置づけの短編があるんじゃないかと言う読み。
でもこれをやっちゃうと、脱・宮崎駿がいつまでも出来ないと思うんすよね。
果たしてその権威をずっと借りたままで宮崎駿の命尽きるまでやって、尽きたら尽きたで過去の遺産を掘り起こすか、宮崎吾朗の監督としての成熟待ちなのか(かなりかかりそうだけれども)或いは誰かを招聘して冠に据えるのか。
そもそもジブリに冠が必用か否か、とも思わなくもない。
宮崎駿の「脳内幻想」をアニメの映像として具体化するための構造がジブリとするなら、脳から切り離されたらあとは死に絶えるしかない。
だから脳をすげ替える話が出ている。
でも固定した脳が無くても何かしらの脳と繋がり仕事を行う事で「一級の技術・技能集団」として生きる術もあるんだろう。
それを選択するかどうかは知らんけど。

果たして「短編:駿・長編:吾朗」の親子どんぶりになるのか、それとも庵野秀明でも迎えて「となりのエヴァンゲリオン新・劇場版 P」でも撮るのか。これからのジブリがどうなるのか楽しみにしとります。
とはいえ富野由悠季招聘してバイストン・ウェルでも撮れば一番しっくりくると思うが 笑
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