判りやすい事はいい事なのか?

文章って言うのは単純で奥が深い。
いや、単純だからこそ奥が深い。
そこに書き手の個性が現れるとよく言う。
あなたの前の彼女だって、むかしはヒョードルだのミルコだの言っていた筈だ
例えば博覧強記な菊地成孔辺りが書く文章ときたらダラダラ長い上にあちこちに跳びまくって、エッセイなんかもいちいち確かに面白いんだが文章量と横溢するジャーゴンに読書中は脳細胞がギリギリ音を立てて磨り減るのがハッキリ感覚としてある(兄である菊地秀行にしろ博覧強記だし血筋と言うか環境なのか)。いや前段を訂正し正確に表現するなら実際シナプスが磨り減ったりするわけも無く当然音も出さないし、クリスティー女史が創造した名探偵エルキュール・ポアロ(Hercule Poirot)でなくたって脳細胞は灰色かも知れないが(この瞬間、脳内で思い浮かべるポワロ像は、決してピーター・ユスチノフでは無く(ありえない)、狂気を感じさせるアルバート・フィニーならまだ許せるが、熊倉一雄の吹き替えで出来ればウィットに富んだデヴィッド・スーシェを個人的にはおススメしたい。もしこれがホームズだったなら露口茂が吹き替えのジェレミー・ブレット、シャーロックならベネディクト・カンバーバッチだろうか)、あくまでも想像だが、彼の書く文章と言うのは彼の頭の中に旋律のように浮かぶ文字列を紙の上に落とし込んでいくような作業で、だから読み手の視点ではなくって書き手の、菊地成孔の書きたいように書いているそんな様子が思い浮かぶ。そしてそれを読むという作業には彼の脳内の旋律を脳内に呼び起こし再現する作業になるわけだが、文章の世界に生きる人と音楽の世界に生きる人の書くものの構造はやはり違うので再現する際にその旋律を再現するのは難解な作業になる(彼にとっては通常のインテリジェントあふれるジャーゴンとハイコンテクストも、澁澤龍彦くらいの知識量だったらもっと容易に読解できるんだろう。方向性が違うので一概には言えないが。せめて大谷能生とか)。彼の視点は音楽に傾倒しているからファッションを語るのも映画を語るのも音楽に軸足があって、だからこそ旋律やリズムが観客や映画や作品やランウェイに与える影響や効果に関して考察があり、その視点はとても斬新な感覚のものが多いし、視点のレイヤーが違うからこそ見えている風景もまた違うのだろう。多くのランウェイ(東京、ニューヨーク、パリ、ミラノetc)では歩くモデルが流れるリズムにノらない事でリズムを受け入れる観客との間に感覚的な違和感や齟齬を発生させる事でランウェイはその空間の中で浮かび上がる特別な空間足りえて、認識されないレベルで「こちら側/あちら側」を発生させるのに対して、東京ガールズコレクションなどで(名ばかりの)モデルが流れる曲にノリノリで歩いてくるのは観客との同調を優先した結果であり、だからこそ知名度のあるタレントやお笑い芸人などがランウェイを歌いノリながら闊歩し、観客に手を振り空間を共有するし多くのランウェイで見受けられる「あちら側/こちら側」は存在せずランウェイ上も「こちら側」であり、店員が着ている服に憧れて若者が購入するようにランウェイを歩くモデルが着ている服をその場で購入するような心理障壁(ATフィールド)の消失感覚を自然起こさせる(この辺りの解釈に関しては「服は何故音楽を必要とするのか?」に書かれていることから管理人が敷衍した勝手な解釈・妄想が多く含まれているので注意が必要だが)(そしてこの効果によって観客とランウェイとの差が密接になる事でケータイでのECサイト購入への導線になっている構造もある)。
服は何故音楽を必要とするのか?―「ウォーキング・ミュージック」という存在しないジャンルに召還された音楽達について
「文章とリズム」変則的な文章でリズムや動きを作り出すと考えると夢枕獏を思い出す人も多いと思う。「カエルの死」は有名。あるいは筒井の「虚構船団」やアルフレッド・ベスターの「虎よ!虎よ!」の“光線が襲いかかる!”を脳内に引用する人も居るかも知れない。最近のラノベには色々と掟破りな文体も多い。文学などではかくのごとくさまざまな文体があり、それが個性として持て囃される事も往々にしてあるが(野坂昭如などの文章も癖があるし、句読点や改行が少なく読み辛い)、素人ブログにおいての文章の重要な要素は何かと言えばそれは簡潔で解りやすい読みやすさが最も優先されると言うのは自明の理で、無名のよく知らない素人が書いた文章に対して真剣に読み込んで中身を咀嚼し理解しようなんて言う奇特な人種は絶滅寸前にあり、今やお手軽で恣意的で偏向なまとめや効率化を至上とするハック技が求められている。タイトルには明確な数を提示しエントリー内の見出しに数字を明記しましょう「これから○○個の事について書きます」「この記事では○○個のテーマについて書いている」「最後にまとめ」と箇条書きする事で読者に「○○個読めばいいのか」「見出しとまとめまで読み飛ばしても良いか」そういう紋切り型で手堅い文章術がもてはやされ、だからどんなブログも多くはどこかの分からない外人の画像や雲の画像と数字が打たれた見出しと最期に要約されたまとめがあって、ブログは個性を発表する場だ!個人メディアだ!一億総クリエイターだ!!と謳いながら結局のところそんな大多数のブログは紋切り型のテンプレートをなぞる事でPVアップを狙うが多くの類似ブログに埋もれて個性なんて欠片も見受けられないままPVも上がらずやがて飽きて廃墟になるか、地道に毎日更新を続けて「365更新達成です!」と特に意味は無いんだけどなんだか達成感だけはあるお祝いムードになったりする。ラジオ体操の皆勤賞みたいなもんでマジメに更新するのはそりゃあ偉いだろうがだからってブログが面白い訳でもないし、面白くなる訳でもないし、キリ番なんかの何かの数字、継続する事での達成感に意味を付与する事で自分の精神的なガイドラインにする効果は確かにあるんだろう。
私の名前は、高城剛。住所不定、職業不明
ところで「ハイパーメディアクリエイター」なんて肩書きは「新橋のサラリーマン50人に聞いた怪しい肩書ランキング」でも堂々上位にランクインしそうな響きがあるが、ハイパーIT高校生だのアルファブロガーだのグローバルエリートだの、そういう香ばしい肩書を堂々と掲げて「オレって格別だろ?」って言う感覚は実にヤンキーがボンタンの太さを自慢するような懐かしい時代から現代のフェイスブックで長ったらしい経歴を自慢げに掲げて薄っぺらくもリア充自慢大会の様相を呈する承認欲求の坩堝の中で選民感覚を煽る有料サロンが持て囃される意識の高さだったりに繋がっていて、ネットと言う文字世界においては肩書きでは無くその記事や文章自体で評価が可能だったり、ハイコンテクスト抜きでその思想や思考を判断するにはもってこいであるにも拘らず多くは肩書きによってバイアスがかかり「グローバルエリートが言うんだから間違いない」「さすがアルファブロガーだわ」「やっぱり○○大学教授の言う事は正しい」と目くらましをされた状態で評価をしてしまう残念な輩が多く転がっている。

ここで考えたい。

ブロガーは、ブログを読みやすく簡単にする事で読み手がそれに慣れ、考えたり文章を咀嚼する力を奪ってはいないだろうか?今や主流のまとめサイトは、容易に解りやすく簡単に流れを把握出来たり、色々な意見を(まとめ主の偏向編集は織り込み済みとしても)知る事が出来て、何も知らない状態で情報を得るにはとても利便性は高いが、このブログでは過去に何度も触れているようにまとめには善意や情報を発信したいと言う渇望よりもインセンティブやアフィリエイト収入や炎上商法による収入があったり、偏向する事で自分の思考・思想に基づいたデマや事実のねつ造を生み出すような事件も往々にしてあり信憑性に欠けるし、情報ソースとして甚だ信用に欠ける。ブログは読みやすくて当たり前、わかりやすく書かれていて、まとまっていて当たり前と言う事が当然であるかのように謳われているが、実際のところそういう解りやすさはあくまでもPVアップのためが主であり、読みやすく判り易くキャッチーであると言う事は、エントリーの内容向上に一躍買うと言うより単にウケ狙いの側面が強く思えるし、実際そういう記事が多い事で読み手の読書能力や読解力が奪われているのもまた事実だろう。大体が「現代人は時間が無い」などと言われて「時間が無いからこそ簡略化されたコンテンツがウケるのだ」などと簡略化への傾倒は留まる事を知らないわけだが実際現代人を見てみれば忙しいどころかLINEだツイッターだFacebookに写真を貼り付けるのに忙しく「ヒマなう」「忙しいなう」つぶやいているなら充分にヒマは存在するはずだが、そういう事に使う時間は暇としてはカウントされないまるで甘いものは別腹とでもいうようなバカな認識が世界を支配していて、少し話を逸らして喩話になるが筋肉は長い間使わなければ落ちるが、読解力や理解力も、難しくめんどくさい文章を歯を食いしばり読み込むことで読解力が付いたりする事もあるのに、難解に絡み合ったパズルのような構造の記事を読解して解釈を得た時の感覚はネットの上に転がる文章では、ほぼ味わえない。ハイパーなんたらみたいな肩書きがネット社会で重宝されるのはその肩書きがキャッチーで解りやすく吊るされた提灯バイアスとして機能したり、あるいは読み手への導線になるからであって、どこかのチョビ髭の独裁者が「嘘をつくなら大きな嘘をつけ」なんて事を言ったとか言わないとかわが闘争に書いてあるとか言うがハイパーという肩書が付く事でその発言に重みが付き(重みと言ってもクリスマス飾りみたいに軽くてキラキラする軽薄な飾りみたいなものなのだが)読み込む視点に偏りを発生させ、ドラッガーガー、ジョブズガー、仕事の出来る男は長財布ガーとアホみたいな中身の書籍やエントリーが重宝されてしまうのはその嘘や名前や肩書が大きくそれが目くらましとして作用しているからだろう。
劇画ヒットラー (ちくま文庫)
先日“繊細チンピラ”なんてものが話題に上がって、知らない人に説明すると何でもかんでも自分への批判と捉えるように曲解したり自分は弱者なんだから気を遣えなどと突っかかってくるような人物を揶揄する呼び方なんだが、ネットではこの“繊細チンピラ”などの弱者が常に幅を利かせていて、繊細であることを強みにしているモノも多く、例えば「ブログにわかりづらい言葉を使うな」だとか「読みやすいように書け」なんていうのも自分が読んでやるって言うのに何をお前はこんな改行も句読点も少なくて長ったらしく文章が破たんしてる読み辛い記事を延々書いてるんだこのクソブログが二度と読むかボケホッテントリどころか炎上させてやろうかなどと読む側・提供される側は、常に書き手・作り手よりも上の存在だと言う勘違いが横行していて、かつてナイナイ岡村が「観たくないなら観るな」と言われたから観ないのは勝手だろうがあの発言にしろじゃあ「観てくださいお願いします」と岡村が言えば見るのかと言えば逆は真では無いのであって、別に視聴者はテレビ局に金を払っている訳ではなくあくまでも企業の商品を買い、その企業の宣伝を流すテレビを観ているだけで強いも弱いも無い筈なのだが「視聴者は偉い」などと言う勘違いはパラダイムとしてとても強く言うなれば回転寿司屋で数百円払った程度の客が「お客さまは神さまなんだからお前らはオレにもっと丁寧に応対しろ」とクソ貧乏人のクセに客商売相手だと偉そうになれる小人物が幅を利かせるかの如く、あたりまえのように「偏向メディアだ」「テレビなんてクソだ」「あんなもの無くなれば良い」などと筋違いな発言もあって、クソだと言うならテレビを捨てたり、回線も切ればいいのにそのクセアニメに関しては熱心に視聴してテレビと言うメディア自体では無くコンテンツや漠然とした「現代のテレビ離れ」やネットにあふれるテレビDisという抽象概念に引きずられた結果の偏見なのだが、そんな事を言う輩が小さな脳みそでそんな事にも気づかず考えるわけも無く、視聴者は弱者であり、弱者は強いし、テレビは強者であり打倒すべき偏向しているテレビメディアであって、あんなものは無くなってしまえと言う想像力も読解力も思考力も欠落したなんの価値も感じ無い見解を吐きてる姿にほとほと疲れを感じるしかない。
もっと自由に働きたい とことん自分に正直に生きろ。 (U25 Survival Manual Series)
既存の価値観や旧態然とした考え方は古いし遅れてるしこれからは新しい考え方が正しく鮮烈で刺激に満ち溢れてボクたちはアウトサイドを歩くんだ(Walk On The Wild Side/Lou Reed)とみんなでアウトサイドを歩く事で、それはアウトサイドでも何でも無くなるんだが、今やユースカルチャーはロックンロールでは無く意識が高い(薄っぺらな)起業家が取って代わり今までに無かった価値観を提供してくれる金色に光るメッキの笛を鳴らして無垢でバカな学生を呼び寄せるハーメルンの笛吹き男は一山幾らで溢れてるのに肩書きや甘い言葉のバイアスを見抜けないまま信者になりそこに痺れて憧れて意識高く生きて勝手に死ねばいいし知ったこっちゃないし破滅したってどうでもいい連中の事は(心の底から)どうでも良いので心配もしないけれど、結局そういう間抜けワナにハマるのは既存の価値観から何も抜け出せていないし既存のパラダイムの掌の上で踊っているだけの死の舞踏(La Danse Macabre)で生き残り肥えるのは中心にいる笛吹き男だけ。簡略化する解りやすくする理解しやすくするというのは読み手の手間を省く事だが同時に力を奪う事でもある。学生時代に「ジョニーは戦場へ行った」を読まずに文庫本の表紙の粗筋を元に反戦とかを盛り込んで妄想で書いた読書感想文の宿題で先生に随分褒められた記憶があるが、省略し要約したものと言うのはお手軽でそれっぽい雰囲気は幾らでも作れて、しかし実際的にディテールを伴った本物とはそれは違う。要約する事でディテールは抜け落ち、本来必要な筈の枝葉末節までなくなってしまい、本質的な部分の芯の芯だけしか残らずそれをありがたがって「効率化だ」などと崇め奉るのはバカのやる事でしかない。バイアスがあればそれを取り除いて、それ自体で判断をする。リテラシーだのなんだの言われるが、それはネット社会に限ったものではなくって本来は何人も行わなければならない知的活動の筈なのだが、残念ながら人間は怠け者で簡略化したものを好み、自由で無制限で無責任が至上で素晴らしいと歌い踊る方を好むんだから仕方がないし昔から「同じアホなら踊らにゃそんそん」と言うが、真実に気づくよりもバラ色のお花畑に騙されている方が幸せに決まっていてあれもまた真理。

ハイパーでグローバリゼーションでアバンギャルドな感覚が生み出すアウトサイドなネクストジェネレーションのインテリジェントなインターネットネイティブ世代はセンスオブワンダーなクリエイティビティを発揮し、日本や既存の価値観を否定しノマドなどの新しい価値観を武器にワールドワイドに広がる視点で自身をプロデュースしてゆくのだろう、なんて顔を赤らめもせず言ってしまえるスカスカなアホはとりま死んでくださいお願いします。
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