日本と言う国での「ロックの定義」

・ロックの定義
http://jassmaz.hatenablog.com/entry/2013/07/11/213653
七月頃の記事らしいけど、今日ホッテントリになってた。
「アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで」と言う本の書評兼ねたロック定義みたいな記事でなかなか面白い。

まずロック史を語る上でド定番のディランのニューポートフェスの話が出てくる。

大量の電気を消費するアンプリファーでエレキギターを大音量で鳴らす行為は資本主義の象徴であり、反近代反商業を標榜とするフォークソングを演奏するのにはアコースティック楽器が好まれた。
演奏者は歌詞やメロディーを観客に伝わせるだけの存在だった。
言わば歌詞とメロディーを覚えているジュークボックスのような機能がシンガーの役目だった。ここでロックファンなら誰でも知っている逸話を思い出してみよう。ボブ・ディランが1965年のNewPort Folk Festivalにおいてアコースティックギターからエレキギターに持ち替え観客からブーイングを受けたという逸話だ。


ブーイングの嵐だ。音楽評論家のポール・ネルソンが以下のようなコメントを残している。

ディランの新しいR&R、R&B、R&?にノックアウトされた・・・・・・。
彼の新しい音楽は最近聴いたあらゆるジャンルのなかでもっともエキサイティングなものだ。
実際、ニューポートの観客はディランがエレクトリック・ギターで演奏した曲にブーイングを浴びせていた。

この辺のプロテストソング変化話は定番中の定番。
過去に十回以上聞いた(何かしら読んだ)事がある。
ディランと言えばこのエピソードがよく出てくるが、wikiにこんな話が書いてあるのはあまり知られていない。

しかし、これはあくまでサイ&バーバラ・リバコブの伝記に記述された、ややドラマティックな脚色がもたらした風説である。ブーイングはひどい音響とあまりに短い演奏だったことに対するものであり、実際には歓声もあがっていたという。
また、バンドで用意した曲だけでは時間が余ったため、アコースティック・ギターで再度ステージに戻って数曲を披露したに過ぎないという証言も存在する

ボブ・ディラン エレクトリックへの変換

調べてないし何が本当かなんざ知らない。
ただこういった話もある。
この裏話を是とすると、ドラマティックな前段が崩れてしまうので、この手のメジャーでも無い話は浮かぶ瀬も無いが、まぁ伝説や伝承なんざロマンティックで記念碑的な方が生き残るんだろう。
(確かディランのドキュメンタリー映画でも前段のエピソードになってた筈)
ボブ・ディランにとっては、どっちにしろブーイングだろうが。


長谷川 ロックで「ドロップアウト」を歌うってことにも矛盾があるんですよ。「ドロップアウト」を歌って人気者になると、打破しようとしている資本主義社会の成功者になっちゃう。所詮は商業音楽ですから。
大和田 その矛盾を真面目に考えすぎるとジム・モリソンやカート・コベインみたいに自己破壊に向かってしまうということですね。

引用の引用になってしまうが、この辺りの話はその当時メインストリーム(大衆ウケ)にいたきらびやかでショーマンシップに溢れた産業ロック(via 渋谷陽一)に対するアンチテーゼとしてアングラなグランジロックがあり、そんな中でニルヴァーナが内省的で反大衆なロックを打ち出したが、ニルヴァーナが売れるにつれアンビバレンツが起こり自殺をしたってエピソード。
そういうアンビバレンツを抱えるからこそロックは細分化し、「反体制だ!」とパンクロックを歌い「ゴシックだ!悪魔世界だ!」とメタルは世界観を造り上げストーリーテラーになり、「ボクたちの事は誰にもわからないよね」とオルタナティブは内省的にユースカルチャーの代表の顔をした。
つまり「売れるか売れないか」「商業的かそうでないか」を避けるため別の軸を持ち込んだ。
売れようが売れまいがメッセージは変わらない。
「女王くたばれ!」
って言うメッセージをパンクロックが歌って、それが売れても売れなくてもメッセージは変わらない。
メジャーに対するアンチテーゼでは無い対立項がある。
だからモリッシーは未だにあんなだし 笑


この辺から日本のロックと海外のロックを同語りするとコンフリクト起きるので、以下は日本のロックで語る。

誰かのために歌うことを必要とされた瞬間にロックは矛盾を抱えることになる。浦沢直樹の大ヒットコミック「20世紀少年」で宗教団体が主催したロックコンサートについて主人公が「ロックにはいろいろ定義があるが、こんなものを俺はロックとは認めない!」という台詞は象徴的だったと感じる。洗脳された人々が自身の安寧のために同調するための音楽、そこに個人はないし、孤独もない。主人公達が物語終盤でウッドストックフェスティバルを模したフェスを開催し、人々を権力から解放していくという演出は、権力の庇護の下の安寧を捨て、孤独(個人)を受け入れることを意味する。

かつて日本にロックは無かった。
そりゃあそうだ。
ポップスだってロックだってなかった。
そして日本にロックが持ち込まれた時にはすっかり換骨奪胎され「ロック」という「若者向けの音楽」と言う形骸化したスタイルだけがそこにあったんじゃないかな。なにせ日本では「メインストリーム」も無けりゃあそれに対する「オルタナティブなロック」なんざそもそも無いんだから。
対立項があるとすればメジャーなアイドルらの「ポップス・歌謡曲」に対する「ロック」くらいのものか。
事情も歴史も違う。
海外のコンテクストをそのまま持ち込んだら、そらおかしな話になる。


ロックは明確に定義されないままスタイルだけが広がった。
明確な定義が無いものを別けるのは難しいだろう。
だから「ロック」と「バンド」と言う概念は未分化なのかも知れない。
三宅裕司いかすバンド天国」なんてもんがあったように、そもそも「ロックでなくてもバンド」は多いし「ロック」が定義されていないから「ロック」も「バンド」も併用される。
「ロックとは何ぞや?」が無い状態で「バンドやろうぜ」と言う。
ねごとだって、神聖かまってちゃん、ミッシェルだって、ルナシー、B'zだって同じ「ロック」だし「バンド」
だからミスチルが甘ったるいラブソングや苦悩を歌っても、それはポップスでなく「ロック」と言われる。
「ミスチルがどうしてロックなのか?」
誰も疑問に思わない。
だってギターとベースとドラムがいればロックでしょう?
サザンだってロックだ。
その程度で充分通用する。
日本ってーのは、基本ハイコンテクストが背景にある。
「ロック」って概念は格好よくて若者の音楽で、「ポップス」ってのはアイドルとか非バンドな音楽。
この定義だと初期のドリフターズもロックになるけど 笑

「ロックンロール」と言う概念をテクスチャとして貼り付ければギターウルフやザ・モッズになる。


「パンク」は不況のイギリスを背景にした反体制だったのに、日本に入って気づけば「青春」で「革ジャン」で「不良」
パンクに続く「オルタナティブ」は日本では「ロキノン系」になった。
言葉は同じだけど、定義って意味では広義にしか使えない。
安寧とか個人とかはよく判らんけど。


例えばラノベでよく言われる

あなたがライトノベルと思うものがライトノベルです。ただし、他人の賛同を得られるとは限りません。
このテンプレも、そもそもジュブナイル小説→ラノベ(ライトノベル)に変化しそれまでの漠然とした児童向け小説ジャンルが、一定のサブカル・ヲタク層向けへ変化した時に「○○をラノベと呼ぶ」という定義なしでメジャーになってしまったため未だに「ラノベとは何ぞや?」が語られこのテンプレートが使われる。
あなたがロックと思うものがロックです。ただし、他人の賛同を得られるとは限りません。
これが至言として機能し、「オレはこんなものをロックとして認めない」と言う時の「オレのロック」は誰かのロックと同じではない。


読みながら上記のような感想を持ちました。
あくまで個人的な心証が元なので裏付けとかはとってません。
定義とかは、サブカルクソ野郎な長谷○氏辺りが語ればいいんじゃないですかね*1
記事がなかなか興味深かったので書いてみました。
では。

アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ)

*1:自分がサブカルのクセに「クソ野郎」と呼んでサブカルを見下す長谷○氏は嫌いなんですよ、えぇ