「美しい」という感覚について

iPhoneでゲームをすることがある。
最近は隙間時間でNUMBERLINKというパズルゲームをやる。

ルールは三つ。
・数字と数字を線で結ぶ
・その際、他の線と重ねることはできない
・全てのマスを線で埋めなければならない

とてもシンプル。


例えばこんな問題がある。
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1~4までの数字をそれぞれ結ぶので四本の線が走る。

指でなぞって繋げていくと
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繋がった。
ゲームとしては、クリアーだが気持ちが悪い。
解き方が美しくない。
ただ繋げて、ただ埋めただけ。

そこでキレイにやり直してみる。
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こうやって繋ぐと美しく無駄がない。
どちらもルールに沿っているし間違ってはいないがどちらが解法として上かと言えば下画像の方だろう。

数学にも「美しい/美しく」ないと言う感覚がある。
文章にも、論理にも。
本能的に無駄なものを美しいと感じない。
無駄をそぎ落とし洗練された状態を美しいと感じる。
解法として一部の隙もない。
余計な心理や情景描写が無く、語の選択が卓越している。
論理的帰結に無駄がない。

「美しい」と言う感覚は面白い。
普段はとても美しさなど感じないようなものをある日突然美しいと感じたり、引かれた線の角度や曲がり方の微細な差で美が産まれたり消えたりする。
雑然と積み上げられた大量の本は美しくないが、その前に偉大な作家が座りその背景になれば雑然と積まれた本がその作家の脳内の暗喩にも見えて、それは別な意味を持って見え、それは先ほどまで雑然と積まれていた本と何も変わらないにもかかわらず、整然と積まれているのとはまた違う人間的なカオスや動物的な部分を象徴しているようで、野卑でありながらも魅力的で美しく感じるかも知れない。

袖の長さ、シワの有無、気温に合っているか、季節に合っているか。
色と色の相性はどうか。
ファッションの難しさもそういう「美しさ」という曖昧なものを追求するからこそ安易な答えはないし、安易な答えはやはり美しくない。


日々、記事を書いていると「この記事は無駄が多い」と辟易することも多い。
しかしそれを削ると自分の主張も削れてしまう。
美しくなくても、そんな無駄も自分と言うモノの一つなのだと、認めて残す。
美しさが個性であればいいのだが、残念ながら必ずしもそれは結びついていない。
醜くてもそれが個性であればそういうものもまた味になる。
この記事もまた無駄だが、こういうものも書きたくなってしまう。

嗚呼、また無駄な記事を書いてしまった。
世にも美しい数学入門 (ちくまプリマー新書)