怒り新党「新三大ジョン・ケージの音楽」がわからなかった人へのガイド #2 「わからない」と言う感想

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怒り新党「新三大ジョン・ケージの音楽」がわからなかった人へのガイド #1 4:33

ジョン・ケージと言えば他にも家庭にあるもので音を鳴らす「リビングルームミュージック」だとか、夕べやってた自然音+電子音+意図した音「水の音楽」だとかもある。
今だとサンプリングで、どこかの曲を切り貼りしたりスクラッチして新しい曲にしてそれにラップを乗せたりしてるけど、それを人力でやればジョン・ケージになる。
もしジョン・ケージが生きていれば今のサンプリングを突き詰めていくのかも知れない。

ジョン・ケージラジオミュージックは複数台のラジオを鳴らしたり止めたりして演奏する。楽器というのは決められた鳴らし方をすれば決められた音が出る。ところがラジオは決められた鳴らし方をしても同じ音は鳴らない。
今のサンプリングならラジオの音を録音して繋ぎ合わせて一曲にしてるようなこと。
それを人力でやったわけだ。

レディオヘッドが来日した時、ナショナルアンセムを演奏する時はテレビやラジオからのサンプリングを使う。

だからナショナルアンセムでサンプリングされる音は毎回会場によって違うし、これは偶然性を取り入れてる。


ノイズミュージックなんてジャンルもある。
ロックだとディストーションで音を歪ませたりにごらせたりする。
汚く汚れた音やフィードバックノイズ(エレキギターがアンプへと戻る過電流から出るノイズ)を鳴らす。
もし「楽器をキチンと演奏し、キレイな音(クリーントーン)を鳴らさないものは音楽じゃない」と言うならロックは音楽として存在できない。
ラムヘッドのビッグマフをかませてわざわざ音を歪める。

Dinosaur.JrのJマスシスはアコースティックな演奏ですらディストーションで歪めてみせる。
フィードバックノイズはギターをアンプに繋げば鳴る。
これも音楽の演奏の一つ。

音楽の偶然性や抽象さは、ジョン・ケージに限らず普段から耳にする。
「プロの演奏は違う」とか「あの人の演奏は色気がある」とかいうが、その「プロらしさ」は別に決められたことをキチンとやるから「プロらしい」のではなく、その先にある漠然とした主張や雰囲気だったり、色気を醸し出したりっていう感覚がある。
あれにしても一定じゃなく演奏者の体調とか微妙なテクニックで当然変わる。
それを聴いて漠然と「格好いい」「セクシー」「カワイイ」と印象を持つ。
それはとても抽象的だし漠然としてるし偶然の出来事。


歌の「歌詞」は便利なもので、音楽の「音の抽象さ」を言語化して、あるいは歌詞が主となって意味を持って誰かの耳に届く。
悲しい雰囲気を感じさせる音が演奏されて「逢いたくて逢えなくて〜」なんて歌詞があれば恋心の曲だなとわかるし「私のお墓の前で〜」と歌えば死んでしまった誰かの歌だとわかる。
音だけなら漠然としたものが歌詞によってわかる仕組みになってる。

よく若い女性が「共感した」とか言うが、共感したのは音楽の音ではなく歌詞であって、それなら歌詞カードでも読んでりゃ「共感」出来る。
音が歌詞のBGMとしてしか機能してないなら音楽である必要はない。

クラシックみたいに何かわからない抽象イメージを「運命」だとかタイトルでそこそこの理解を促した上でジャジャジャジャーンと鳴らせば「あぁ、運命っぽいなぁ」と思える。


二人が、ケージを初めて聴いた感想は「わからない」だったんだけど、この「わからない」という感想は素直だし、そして面白い。

例えば普段クラシック音楽を聴く事がある。
クラシック音楽を理解してるわけじゃない。なんか
「すごいなー」
「高尚そうだ」
「ゴージャスだなー」

そんな漠然とした感想でクラシックは「理解」をされてる。
でもそれは「わかってる」わけではない。
聞いた事がある音に似ているから慣れているに過ぎない。

有吉が「だってコントだよ」と言ってたが、あれも正しい。
シュールな笑いは既成概念からの逸脱。だからジョン・ケージの音楽を真剣に見てる客も多いが、笑ってもそれは間違ってないしアリじゃないのかな。
「音楽」は音を楽しむもの。
笑う事を否定なんてしない。
楽しめればそれが正解。

ケージの音楽を聞いて、退屈でアクビをしたり、こんなもん音楽じゃないと怒り出すよりよほどいい。
とはいえそれもまた感想としては正しい。
「何かを聴き感じた感情や思考、それが音によって生み出された」ならそれは音楽として機能してる。

すべては、メタなジョン・ケージの掌の上。