読まれる事を意識して書かれた文字は全て創作である

・ネットには、人間の「ホンネ」なんて書かれていない。
http://fujipon.hatenablog.com/entry/2013/10/18/141348

どっかの誰かが「ブログとはスタンドのようなものだ」とか書いていたが、ブログと言うのはスタンドであるならそれはつまり自分自身ではない。
大統領とDirty deeds done dirt cheap~いともたやすく行われるえげつない行為~が別物であるように。

かつてアガサ・クリスティは記者に
「そんなに人が殺される話ばかり書いていたら誰か殺したくなりませんか?」
と言われ
「作品の中で殺してスッキリしているので実際に殺したいとは思いませんわ」
と答えたのだそうだ。*1


「言う」ことは「聞かれる」
「書く」ことは「読まれる」
大きな違いは何かと言えば「残る」か「残らない」か。


電話で怒鳴るクレーマーに「この電話は録音しています」と言ったとたんに大人しくなるように、記録されるならそれを意識する。
記録される言葉と自分は繋がる。
しかし匿名のネットにおいて書きこまれ「記録され」「残る」言葉が繋がるのは匿名の自分。
記録されない言葉は自分とイコールではない。
自分がネット上に作り出したコテハン、アバター、アカウントがそれを言っただけ。


テレビを観ていて
「うわー、こいつ死ねばいいのに」
と言ったとしても本気で死を願っているわけじゃない。
「消えろよ、うぜーなー」
「...めざわりだなぁ」
「クソが。全部死ね」


「本音」とはなんだろうか。
本当に思っている事?
よくダブスタダブルスタンダード)と言って揶揄するが本来人間とはダブスタで、ダブルどころかトリプルでもそれ以上でもありえる。その時々に応じて一番適応した理論を使う。

例えば「服なんて所詮ツールだ」と思っている人がいる。
「見た目ばかりで生存に必要がないなら実用性さえあればいい」
しかしアニメの円盤には金を払う。
アニメの青い円盤は生存に一切必要がない。
見た目だけで何もない、実用性すらないかも知れない。
でも対価を支払い手に入れる。
もしそれを問えばこう答えるかも知れない。
「コンテンツとして文化的な価値がある」
では服には文化的価値は無いのだろうか。
そうではなく単に自分が「価値を感じるもの・感じないもの」で定規を変えているに過ぎない。
自分の欲求を正当化するために理由を与え、欲求が無いものには否定すべき理由を与える。
その定規は必ずしもすべてにおいて一貫している訳でもない。
バイアスによって思考は簡単に歪む。


ブログを書く時、書き手は読み手を意識する。
そうでなければ好きな言葉で書けばいい。実名を出せばいいし乱雑でも省略でも好きにすればいい。
しかし読み手を意識して読みやすく書いたり言葉づかいを選んだりする。
それはもはや本音とは言えない。
読み手を意識し書かれたものは創作。
「創作」とは別に荒唐無稽な話である必要も虚構である必要もない。
書き手がそこに読み手を意識して文章を書くならそれは創作活動であって、読み手を意識せずに鍵のかかった日記に自分の思いのたけを言葉も構わず書き散らすのとはわけが違う。
読み手を意識して書かれる言葉は読まれるために創造される。


ツイッターと言うものは即時性がある。
思えばすぐに書ける。
すぐに書けるということはすぐに読まれるし、すぐに広がる。
そしてそれを忘れてその場で思ったことを書いて燃えることもある。
しかしそこに書かれた事はその人物が思ったこと~本音であるとして取り上げられる。
例えば政治家が書けばそれは本音。
本心であるかないかではない。
誰かが書き、それが読まれた時点でその言葉は意味を持つ。


書かれた事が本音かどうか。
つまり本当か否か。
それは自分には判らない。
例えUFOに攫われて宇宙を旅した際に未来予知能力を得たという書き込みがあったとしてもそれが本当なのか嘘なのかを実証する術を何も持たない。
ブログを書いていて増田に「死ぬべきである」と書かれた事があるが、それを書きこんだ人間が見ず知らずのブロガーにそこまでの殺意を持てるのか、本当に名前と住所がわかれば刃物を持ってやって来るのか、誰かに殺すように依頼するのか、それともいたずらなのか、ただの中傷か。
それは判らないし、書きこんだ本人も今からそれを思いかえしてあれが本気だったのかどうなのか判るのだろうか。
そしてこの記事がどんな気持ちで書かれているのかも誰にもわからないだろう。

どこにもほんねなんてはいっていない。
(fadeout...)
脳のなかの幽霊 (角川文庫)

*1:未ソース。どなたかソースをお持ちの方はいらっしゃいませんか?