お笑いのどこが笑えるのかを言葉で説明してみる蛇足

前置き

・お笑いのベタとシュールと四つの型
http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2013/10/28/143846
昨日、こういう記事を書いたら大層ウケなかった。
ところが言及元の

・笑いの壁と愛着。スクールカースト
http://meerkat00.hatenadiary.jp/entry/20131028/1382968610
「夜の庭から」さんからアンサーをいただきました。
そこで完全に蛇足になりますがボートラを。


しかしなぜに先生www

型の理解があり、また少しでも親しみを抱いていれば笑いを受けとれる。反して、親しみがなければ「同じことを何度も……(´д`)」とシラけた目で見てしまう。ベタを楽しむにも、演者との人間的な絆が必要かなと。特に幼少期における笑いとの接触頻度は、笑いの素養に大きな影響を及ぼすのではと思いました。


例えば、私は小籔千豊でもれなく笑いますが、理由を考えるとスクールカーストにまで遡ります。小藪さんのキャラは、ちびまる子ちゃんで例えると野口さんポジション。学生時代、不思議ちゃん枠を獲得していた私には、小籔の教室の隅から視点がわかりやすい|д゚)チラッ。

小籔の笑いはシニカルで前提知識が「誰しもが持ちえる」からなのかもですね。
例えばスラップスティックなコメディが判り易く受けやすいのはその所作が「知識なしで大仰で誰しもおかしいとわかる」からでしょうから。

シニカルなツッコミは観客もシニカルな目線を持っていてそこに合致する。
ツッコミは「観客への解釈の代弁」ですからシニカルなツッコミはシニカルな視線と合う。
新喜劇で座長を務め、色々な団員の...それこそ島木譲二の「今なら100パーセント白ける」パチパチパンチを笑いに昇華させる。
笑いもブームがあって、昔なら「ギャグで笑う」(へん)だったのが「ギャグをやる→スベる→ツッコむ」が多くなった。
いわゆる、いじる/いじられる図式。
昨日の四つの型で言えば「スベる」と言う状態は不条理であって、そこにツッコミが入る事で条理に戻る。
その作用で笑いが発生する。
すべり芸なんてのはそういう「謎解き」ですか。

桂枝雀による4分類
桂枝雀は笑いは緊張の緩和によって起こるという理論を立て、それと平行して落語の落ちを4種類に分類した。観客がどこで笑いを感じるかに視点を定め科学的な分類を実現した。
・ドンデン
物事の展開がいったん落ち着きや一致を見せることによって観客の心理が一度安定に傾き、その後に意外な展開になって不安定な方向に振れることで、落差により笑いが起きる。逆のパターンが「謎解き」である。
・謎解き
物事の展開が観客にとっての謎を生むことで心理が不安定に傾き、その後に謎が解決して安定することで笑いが起きる。逆のパターンが「ドンデン」である。
・へん
安定状態を経由せず、通常の状態からいきなり物事が不安定な方向に逸脱してしまう作用によって笑いが起きる。逆のパターンが「合わせ」である。
・合わせ
不安定な状態を経由せず、2つの異なる物事が合致してしまう安定化の作用によって笑いが起きる。逆のパターンが「へん」である

落ち


BODY

昨日投げっぱなしだったBODYこと増谷キートンのおかしみについて。

これに関してはBGMと格好しかないわけですから、本来言語での笑いよりも読みやすい。
ただ抽象画やシュールレアリズム、キュビズムと同じで「果たして何であるのか?」を判らないとも面白くない。
というか自分でそれを解決して初めて面白いのであって「これってここが面白いんだよ」は笑いには繋がらないんですよね、残念ながら。
以下、非常に無粋な「笑いの解説」をやってみる。


キートンはピンクの全身タイツ、謎の歌に合わせてコミカルな動きで登場。
顔が見えないと言うのは人間性の否定。
ピンクの全身タイツは顔が見えない→怖い、狂気
コミカルな動き→面白い、愛らしい

頭には愛と書かれた鉢巻きに何やら二本突き立ててる。

もちろんこれは「津山三十人殺し(八墓村のモティーフとして有名な惨殺事件)」であり「恨みはらさでおくべきか~」なわけです。
本来は懐中電灯二本を立てる。
ところがそこに「愛」と書いてある。
津山三十人殺し→怖い、狂気
愛→優しい

そして手にはムチと芋を持ってる
しかもきゅっきゅと芋を磨く
ムチ→怖い、武器
芋→怖くはない、食品

そしてコミカルな動きをしたかと思えば突然止まって仁王立ちになってただじっとしている
コミカルな動き→面白い
仁王立ち→怖い

それが再び芋を撫でてコミカルに動き始める
不条理から不条理への構造なんだけどもここには狂気→安心への変換が存在する。
人は安心すると笑う。
棒立ちのキートンに不安感を覚えたのに再びコミカルに動き出す事で安心感が産まれそれが笑いになる。


狂気・恐怖とコミカル、不安感と安心感、人間と非人間、理解と不理解。
こうして相反する二面性のあるモティーフのミスマッチによって前半は構成される。
いわゆる条理と不条理がない交ぜになってる。
安心する事で人間は笑い、理解する事で笑う。
緊張と緩和。


そして後半。
イスに座ったキートンは人間的苦悩を表現する。
苦悩は条理として理解できるが、全体としてみれば前半のダンスは不条理であり、後半の苦悩は条理。

前半で不条理な行いをしたことに苦悩している。
あの芸でオレは良いのか、このままやって行っていいのか。
そういう人間らしい行動を全身ピンクの非人間(不条理)が行うことで笑いが起こり、前段のきゅっきゅダンスがコンテクストのストーリーとして繋がってる。
前段のダンスが因で後半の苦悩は果に相当する。
頭に撒いたハチマキを外し、ムチを置き、机の上に置かれた酒を浴びるように飲み現実から逃避しようとする。

そして衣装であったピンクの全身タイツを脱ごうとする。
この時、下にキートンの顔が出てくれば面白くもなんともない。
ところが脱ぐと下に出てくるのもピンクの全身タイツ。
ここで「下もピンクなら着る必要ないやろ!」という裏切りが生じる。
ダウンタウン松本曰く「笑いとは裏切り」ですから、ここで観客の「タイツを脱げば素顔であろう」という不条理から条理への解釈を裏切り、枝雀師匠の言うどんでん「不条理→条理に見せかけて→やはり不条理」と言う構造が笑いにつながる。


忍者になって巻物を取りに行く


ついでなのでもう一つ。
アルコ&ピースの「忍者になって巻物を取りに行く」ネタ。
これは漫才として通常であれば「忍者になって巻物を取りに行く」という世界を舞台で共有する事で見せる筈が、それを裏切って「アルコ&ピースと言う漫才師の片方がネタ世界を共有せずに、アルコ&ピースと言う漫才師のコンテクストを持ちだしてネタ世界を否定して見せる」「荒唐無稽なネタ世界は観客も相方も全員が虚構であると理解しているのに、アルコ&ピースと言う漫才師のコンテクストと同レイヤーにネタ世界を置いて解釈している」という不条理がおかしみな訳です。
構造がややこしい。
似た構造としてはX-GUNの「真剣な説教とダメだし」に類似してる。

条理は誰しもが持つことで、観客は勝手に救われる。
キーワードである「忍者になって巻物を取りに行く」と言う言葉を何度も繰り返し強調する事でいわゆる「テンドン」(同じことを繰り返すおかしみ)の効果を出す。


ツッコミとテロップ

以前にもどこかで書いてるんですが、最近のバラエティはテロップが多い。
上岡龍太郎が昔「ああいうテロップによって笑いの感覚が鈍化する」と言っていたんだけれども、昔の演芸番組には笑いのポイントを示すものがなかった。そこで笑い屋のおばちゃんや(歌舞伎などで言えば声掛けする人)によって「このポイントは笑うべき場所なんだよ」という笑いの安心感を与える(歌舞伎であればカタルシス)構造が存在した。
ところがテロップは数を撃ち、笑うべきところでなくても「ここで笑え」と解釈を与えすぎる。

プロレスって実際見に行くと、当たり前なんだけども実況が無い。
実況が無いからどの技がどうであるか、どういう因縁か、どんな技が凄いか、今が決まったのか決まってないのかを独自で判断するしかない。
スポーツは概ねそうでしょう。
解説・実況は生の迫力に欠ける分を補うべく言語により補填を行う。

淡々とした実況がかつての状態だとすればテロップ芸(テロップで笑わせる)って言うのは古館一郎のプロレス実況みたいな過剰さを感じる。シドニィ・シェルダン「時間の砂」で「本来の英語小説を日本人向けに読みやすく元小説の単なる翻訳では無い」“超訳”ってのをやってたがああいう感覚だろうか。
それ自体をテクニックにしてしまうとそれは本道から外れる。
(他にもアメリカのコメディドラマにある誘い笑いとか、とんねるずの番組のスタッフの笑いとか)

漫才を生で見るとわかるんだけど、知ってるネタでも面白い。
それは周囲の空気感とか一体感とか言う安心感が存在するから。
テレビにはそれが無いからテロップを遣う事でおかしさを補てんするんだけれども、残念ながらテロップに頼りすぎてあくまで足りない部分を「補填」するはずだったものを「強化」するために使い始めたもんだから道理がおかしくなった。
おかげで笑いの質は下がったのかもしれない。
かつて上岡が言ったように。
上岡龍太郎 話芸一代