サブカル・イズ・ノット・デッド

※オチも主義・主張も無い
※定期ポスト

文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)
普通の事が出来ないボンクラがサブカルで食うための4Jとは?〜大槻ケンヂ『サブカルで食う』 - 情報学の情緒的な私試論β
サブカルが、サブカルとして語られてるのってほんとここ最近のこと。
サブカルもオタクすらも存在しなかった黎明期、サブカルはサブカルだったのにサブカルでは無くオタクはオタクだったのにオタクでは無かった。


「コレクター」「趣味人」「ネクラ」「キモい」「マニアック」
それが未分化の「オタク」であり「サブカル」だった。

怖いからさ、わかってるだろう?

二度と手に入らなかったらどうしよう、どこか行方不明になったらどうしよう

汚れてしまったらどうしよう、組み立てる時に失敗したらどうしよう

そんなさまざまな不安がお前を動かしているのさ

お前は自分の中の不安をなくして、安心感が欲しいために無闇にコレクションを増やしているのさ

だから言っただろう?

みんないつかは死ぬ

墓の中にまでガンプラやDVDは持って行けないんだ

その夢も消え去ってしまったがな

諦めろ

全ての生き物は、生きている間、一時的にこの世界から物を借りているだけだ

死んだらみーんな返さなきゃいけない

なら今手放してもどのみち同じ事だろ?

いっその事、みーんな捨てちゃえよ

誰かにあげてもいい、売っちゃってもいいな

そしたら随分楽になるぜ?

身軽になれよ、な?

ケロロ軍曹第140話:ケロロ ある男の戦い であります

オタクは広義にすればサブカルを含み、サブカルを広義にすればオタクを含む。
明確な分別が無いままに「オタク的」「サブカル的」な認識は漠然と広がる。
だからこそどこぞの(他人が見えればれっきとしたサブカル人なのに)「サブカルクソ野郎どもが」とサブカルを見下しておられる如くのたまう、どこぞの文科系のためのヒップホップ入門な輩がいたり、かつて「オタキング」と自称した評価経済社会のピラミッドの王さまは「オタク is Dead」とのたまい今やダイエットの教祖として君臨する。
オタクはすでに死んでいる (新潮新書)


サブカルとは大槻ケンヂのことである

デマのヒトの名言「サブカルとは大槻ケンヂのことである」
ただしそれだけではない。
サブカルとは、いとうせいこうみうらじゅんザ・スライドショー)、近田春夫川勝正幸泉麻人であり、ガロであり宝島社「VOW」だった。
ナゴムだし、有頂天だからKERAだしケラリーノ・サンドロビッチでナイロン100℃もその文脈に位置する。
空手バカボンも人生も。
一方ではフリッパーズギターにピチカートにコーネリアスカヒミ・カリィを含むトラットリアな一面もある。

Kahimi Karie - Elastic Girl - YouTube
実に広義で曖昧でそれっぽければすべてサブカル。


オタクはサブカルをバカにする、と言う構図は一時期の盛り上がり以降の定例行事になってるが、その実オタクの一般化(ライト層の流入、誰でもオタクの時代)によってオタクと言うものが瓦解し、しかも頑迷かつ理論武装した筋金入りのディープな“オタク”は「自称オタクどもが幾らオタクって言ってもお前らは甘い」「オマエのオタクはファッションじゃねーか、名乗ってんなよ」「にわかじゃねーかwwwww」とオタクと言うものの変質~変容を受け入れない(しかしそれは必然)。
ライト層からすればサブカルとは「インディーズバンドとか大判のマンガ買って下北の劇団見に行くのが趣味のほっそりメガネ男子」「ゆるふわ系ファッションでビレッジバンガードに行ってるメガネ女子」的な印象だろうが、それはにわかオタクと言われてる自分らとニアイコールだと気付かず見下してみせる。
オタクは広義にすればサブカルを含み、サブカルを広義にすればオタクを含む。
しかもにわかなオタクは本来サブカルですらない。
知識・教養権威主義ですれば、にわか「サブカル」だ。


オタク・イズ・デッド

サブカルとは「浅薄なオタク」ではない。
岡田斗司夫のいうオタクとは
「好きなものは自分で決めるという強い意志と、それを継続させることのできる知性をもつもの」
でありだからこそオタクは死んだとのたまった。
オタクにはライトもディープも無い。
ディープであるから「オタク」なので、アニメやマンガを趣味にしていれば「=オタク」では無かった。


一方、一つサブカルチャーを突き詰めて愛情を注ぐ(本来的な)オタクに対し、サブカルは「広く、しかしそこそこ深く、斜めに見る」のがサブカルだった。
ライトにそれっぽい上辺の真似ごとをして見せればそれが「サブカルだ」と言うのはオタクがサブカル蔑視した結果の歪んだ偏見でしかない。
「対外的ポジショニングとコミュニケーションに立脚」
と言う意味では本来的には教養主義のオタクも変わらない。
マニアックでオタク的知識と教養に溢れコレクター=素晴らしいオタク。

実際、サブカルと呼ばれる人々の中に知識が浅かったり、上辺だけでそれっぽく語っているだけの人間は少ない。
サブカルは趣味人であり、かつリアルにも軸足を置き、様々な物事をそこそこ吸収する。飽き性で次々マイブームが変わるみうらじゅんのように、クソくだらないことや通常であれば無視されてしまう物事に意味性を見出し、そこに付加価値を与えることで陳列して見せる。
それは確かにスノビズムに「薄っぺらい」と見られることもあるだろうが、本来的にサブカルと呼ばれる人種はそういうものだろう。

サブカルとは本来コミュニカティブな文化であり、社会の中での位置付けが重要視される。いかに信奉者が「単に好きだから」という理由で愛好していようと、サブカルの世界では相対的なポジションが重要視されるのは、現実を見れば分かるとおり。音楽マニアのセンス競争など、その最たるものではないですか。もっとも、モノに溢れた現代では、ある程度まわりを見ながら商品を選ぶのは当然であり、その行いは何ら否定されるべきものではないと、個人的には思うわけですが……。

【日記】オタクVSサブカル、再び……: Atahualpa

これを適用すると今の「オタク」のかなりの部分はサブカル範疇に入るだろう。
呼ばれることを嫌うだろうが。

こういう「相対的なポジションが重要視」されるサブカルだからこそ関西のオタクシーンにはサブカル/オタク論争と言うものがなかったんだろう。
サイキック青年団」周辺を見るとよく判るが、水道橋博士岡田斗司夫前田日明。プロレス、格闘技も芸能人のゴシップや新興宗教やニューヨークパンクに到るまで、いわゆる「サブカル的」なものが渾然一体として未分化なままそこにあった(今は知らん)。
関西と言う土壌に「対外的な気取り」価値観は相入れない。
サイキック10年ファイル―1988~1998


狡兎死して走狗烹らる

今や誰でも切っ掛けがあればペンライトを片手にアイドルのコンサートに行き語り、アニメを観て、映画を語る。
DDだし、色んなジャンルでDDをやって見せるオタク。
オタクが死んだ理由、それは趣味を貫くのに、精神力と知性をもって世間の目に対抗していく必要がなくなったからだ。すでにこの世はオタク天国と言い換えてもいい。「天国にいる」を「死んだ」と言い換えても、それは間違いではない。たしかにその意味において「強いオタク」は不要だ。人の趣味にケチを付ける狡兎は死して、オタクという良狗は烹らるというわけである

404 Blog Not Found:オタクとギークの違い - 書評 - オタクはすでに死んでいる

かつてマイノリティであり排斥されたオタクは「電車男」以降、市民権を得て今に至る。
カリカチュアライズされた宅八郎がオタク像だった時代は終わった。
もはやオタクはオタクだが、オタクでは無い。
岡田斗司夫のいう「強いオタク」は必要なくだからこそ公開死亡宣告をした。

そしてサブカルはその漠然とした広さから何となく蔑称として使われ、しかし本来的なサブカル人はジャンクロード・バンダムのように自嘲し「サブカルで食う」とのたまい、川勝正幸は「ポップ中毒患者」とサブカルとは別のポップカルチャー・レイヤーを謳いあげ、みうらじゅんは相変わらずマイペースに謳歌し、いとうせいこうは相変わらず活発に口ロロや「ノーライフキング」だの「想像ラジオ」なんかの小説を発表(再発)したりだの世間を器用に渡って行ってる。
その「器用さ」「手広さ」こそオタクの嫌うところだが、サブカルは変わらない。


オタクはかつて名乗るものではなく呼ばれるものだった。
今やオタクは名乗るものになった。
だからオタクは死んだと言われた。
サブカルはかつて名乗るものではなく呼ばれるものだった。
未だにそれは変わらず、サブカルクソ野郎とバカにされ、あるいは自嘲することもある。
だからこそまだ死んだとも言われない。

軽薄なキリギリスは意外と生き残る。
ワールズ・エンド・ガーデン: いとうせいこうレトロスペクティブ


【追記】
サブカルチャーへの愛という憎悪 - ロックンロールと野球とラーメン
同時多発的にこうやって書かれるのも面白い。
こちらはサブカルへの嫌悪目線。