自由と責任が同時に存在するように、書き手と読み手も存在する

夕べのテレ朝深夜の番組「怒り新党」を観てたら視聴者からの投稿で
「既読無視が許せません。私は既読無視をする人が...」
と始まって、
「相手のことを考えてない既読無視はホント理不尽な...」
と続くんだけれども、MCのマツコ・デラックスはLINEをやってないので
「いったい何の話なのよ~!既読無視ってなあに~?!!」
と言うのは当然の反応。
「相手のことを考えてないのはお前(投稿者)の方だろーwww」
読み手のことを考えてない。


誰しもわかるとは思うがこの「既読無視が許せません」には“既読無視”と言うものが何なのか誰もが判っている前提で主語が抜けている。
当たり前のように「既読無視が許せません」と書かれてもLINEをやってない人間は山のようにいるわけで(ウチもやってない)そこで当然のように主語抜きの「(LINEでの)既読無視が許せません」を送ってきてもそりゃあおかしな事になる。

メッセージを送る時は必ず相手がいる。
誰に読ませたいかによって言葉は選ばなきゃいけない。
何が省略できるのか、どれが必用なのか、何を書いてはいけないか。
自分が書きたいように書いてその先に相手がいないと上記投稿者のような「主語抜き文章」が完成する。



同じくテレ朝「ロンハー」での一コマ。
タイトル未定(TYPEI)(仮)初回限定盤(特典なし)
AKB48島田晴香が出ていて「伸び悩んでいる」と“芸能界の荒波を生き抜いた”有吉先生に相談を始める。
そんな中、AKB48島田が「アタシも昔はぱるる(島崎 遥香)より推されてて...」のような事を言った時、有吉が
「AKBの中のポジションとか、AKBの中で誰より人気があるとか、AKB村でやっていることは、俺らは知らない」
と切って捨てた。
テレビってのは誰が観るのか判らない。
そういうメディアでAKBの内部の話をしてもそりゃあ通じない。
例えば深夜のAKBの番組や冠番組だったらいいのかもしれないけど、夜九時台の番組では相応しくない。
テレビの前に誰がいるのか、それを考えればコミュニティの話は向かない。


文意が伝わらない時に、書き手が責任を持つか読み手に責任を持たせるか。

読み手からの突っ込みが的外れな時は、
読み手の思慮が浅いか読んでないかで読み手に責任を持たせることも出来るが、
いずれにせよ、書き手は、
すべての責任を請け負って、
文意が伝わらないのは書き手の責任と解釈した方が良い。

それは、
文章力と言う意味でも、影響力と言う意味でも、タイミングと言う意味でも。

文意通りに何かを伝えるということはそれだけエネルギーがいるし、
文章力だけに起因するわけではないということだ。

以前に記事で「齟齬が~」と言う言葉を使った。
それを読んだ人に「齟齬ってなんですか?」と聞かれたが、ではそういう言葉を使ってはいけないだろうか?
例えば「ゲシュタルト崩壊」や「ベナール対流」という言葉を使うのはどうだろう。
はてなは(と言う時に「はてなとは何か?」と毎回書かない)キーワードに自動でリンクが付与されるので読者は判らない言葉があればリンクを見たり、検索したりして調べる事が出来る。

もちろん
ゲシュタルト崩壊(一つの文字を見続けていると文字の意味が分からなくなる現象)」
だったり
「ベナール対流*1
などという注釈を付けることもできる。
ただ読み手の言語力や知識量が計れない、想定できない以上、書き手は「自分の及ぶ範囲内での読み手への読みやすさ」しか提供できず、それ以上に「こんな漢字知らん」「めんどくせー言葉ばっかり使いやがって」という反応に対しては「ggrks」としか言いようがない。
「分かりやすい表現」の技術―意図を正しく伝えるための16のルール (ブルーバックス)

だれにでもわかりやすくブログ(ネット上でだれでも公開できる日記のようなサービスのこと)を書くのは、ブロガー(ブログを書くひとの総称)が、どういう読み手を想定するかにかかっている。

もちろんだれにでもわかりやすく伝わる記事が書ければ一番だけれど、それはだれかにとってはわかりやすく、だれかにとってはわかりにくいのかも知れない。

それをすべて想定して「文章の意味がつたわらないせきにんは書き手にあるんだ!」と言うのは勝手だが、どう読まれるかは書き手のせきにんでも、どう読み取るかは読み手のせきにんでもある。


最近引越ししたメガネノマド*2がかつて
「誤読を恐れるな!」
と自分の浅薄な文章力と思考を肯定した*3が、「誤読を恐れるな!」と言う言葉は暗喩として
「誤読してもいい。それは書いてる人間にも読んでる人間にも責任は無い」
と言うことを暗に含めている。

伝えたいことが間違ってしか伝わらなかった。
それは書き手の技術の低さだろう。
あるいは読み手の読解力の低さだろう。
どんなに丁寧に書いても伝わらない人には伝わらないし、読めない人は読めないし読まない。
どんなに読もうと頑張っても読めないものは読めないし、書けない人は書けない。

書き手は読み手を選べない。

責任と自由は常に同時に存在し、切り離すことは出来ない。自由の無いところに責任は存在せず、責任の無いところに自由は存在しない、とされる

責任 - Wikipedia

ブロガーはブログを自由に書いていい。
ただし書いた記事に対して責任が存在する。
だがその際の責任はどの程度か。
時と場合にもよるが、少なくとも個人のブログが何かを書いて
「謝罪しろ!」
「ブログ辞めろ!」

誰かを攻撃した訳でも無く言われるのは不当だし、自由と責任の分量が違いすぎる。
誤読しか生まない記事を書いたのであればその書いた「自由」に見合った「責任」が存在する。
誤読は避けられないのだし、読み手には「読む自由」もある以上、読み手にも「読む責任」があるということをあまりにも自覚されていないことが多く、だから「誤読を恐れるな!」などと言う勘違いした意見が出てくる。
誤読をし責任を取らない人に書き手が責任を取ることは無い。
誤読をするような記事を書き責任を取らない人に読み手が責任を取ることは無い。
自由と責任が同時に存在するように、書き手と読み手も存在する。
いずれにせよ、書き手は、
すべての責任を請け負って、
文意が伝わらないのは書き手の責任と解釈した方が良い。
という意見は誠実な書き手の標語としては非常に折り目正しいが、実際的にはかなり齟齬があるともいえる。

ま、何よりこの記事自体が判りにくいんだが。
文章力の基本

*1:味噌汁の中で雲みたいに動いているあの対流

*2:毎週日曜日あさ8時30分から放送のABC朝日放送 「ドキドキ!プリキュア」内CMを観ていると出てくるハイネック男

*3:オレはオレを肯定する viaワールド・イズ・マイン