堀井憲一郎「落語の国からのぞいてみれば」

落語の国からのぞいてみれば (講談社現代新書)
本日もお越しいただいてまことにありがたいもんでございますんですがぁ。
えー、まずは一席申し上げます。

堀井憲一郎「落語の国からのぞいてみれば」
これがなかなかに面白い。

世の中の常識というのはぁ、時代時代によって当然異なる。
ま、当りまえと頭でわかってはいてもなかなか難しいもんですな。
洋風に言うたら「パラダイム」とか言うたりもします。

「常識に縛られたないんや―!」
言うて盗んだバイクで走ってガラス割って回ったら、今なら警察に追い掛け回されるでしょうが、江戸時代に盗んだ馬で障子を破って回ったらまず町内の人にドヤされるんが先でしょうな。
岡っ引き呼んでも
「障子破られた?元々お前んとこの障子はあそこもここも破れとるやないかい」
言われて追い返されてたかも知れません。


この本の中に「名前は個人のものではない」と言うくだりがあります。
よく老舗のご主人とか歌舞伎役者とか落語家さんなんかが「××代目○○襲名」と昔の有名な方の名前を継いだりするもんですが、あぁいう「継ぐ名前」というのは一体なんなんだろう?と考えてみるとこれはなかなか面白い。

一般家庭の子供が成長して
「お前も20歳になったことだし、おじいちゃんの名前を襲名しなさい」
とはなりませんからな。
幼名「拓哉」で成人したら、祖父の「捨五郎」を襲名したら泣くに泣けない。
「権三郎」ではコンパでもモテませんわな。

海外だとオヤジと同じ名前だもんで「ハリー・コニック・ジュニア」みたいに最後にジュニアを付けることがあったりしますが、あれも不思議なもんです。

近代以降、つまり明治維新以後、いったん政府登録した自分の正式名はみだりに変えてはならぬ、とお触れが徹底していて、あまり自分の都合で名前を変えない。それが近代国家の強い要請ですね。でも伝統の力は近代の要請を超える。
うちは太閤はんの時代からそうしてまっさかい、と、自分たちの方式を通すのだ。それは大きな家の当主は、名前が変わるもんでっせと言う方式ですね。
『生まれたときの名』
『家を継いだときの名』
『隠居したときの名』
生涯に三つの名前を持つ。それぞれが正式な名前で、人は役割によって名前も違うのだという、前近代的な常識に基づいた方式です。

生まれてから死ぬまで一つの名前で、だから人は変わらないものだ、というのはこれは近代の病の一つ。養老孟司さんも指摘されてましたね。


日本酒と言えばきりっと冷えた清酒をイメージするもんですが、昔の酒言うのは夏でも冬でもお金のある人は熱燗で呑んだんだそうで。
冷で呑むというのは仕方なしとかお金がないとか、火を起こせないとか、そういう時でも無ければ呑まんかったんだそうで。
今やったら夏場に冷えたビールをぐぐぐっと呑むのが当たり前なんでしょうが、昔は真夏に熱燗をぐびぐびっと...想像しただけでなんやいやーな感じですが、それが当時は普通やったんでしょう。

色々な落語のフレーズから当時の状況を推察して今との違いを「昔はこないやったで」と提示して見せる。
全体を通じてデジタルでないアナログな昔の世の中っちゅーのは、いい言い方をしたら大らか、悪い言い方をしたら雑やったんかも知れません。

落語を通じて今の常識と過去の常識、どんな風に違ってるのか。
それがわかる面白い一冊でございました。
おあとがよろしいようで。
落語論 (講談社現代新書)