モノの価値の崩壊とコトの価値の上昇と

「モノ/コト消費」についても少し考えてみる。
※専門の教育は受けてないのでよく知らんがブレストがてらの小ネタ


かつて日本は戦争を味わい、そこから高度経済成長を経た。
時代は「テレビ・洗濯機・冷蔵庫」だった。

「モノ」が世間に少ない時代。
隣、近所にはない「モノ」を持つ、所有することがステータスになりえた。

やがて高度経済成長が終わる。
「モノ」を持つことが当たり前になった時代。
オイルショック~バブル景気を経て、消費が「土地の価格」や「ブランド」などモノ自体ではなく「モノに対する付加価値」への投資に代わる。
みんな「モノ」を持っているから差別化として付加価値を欲しがる。

やがてそれも終わりバブルが崩壊し、不景気に突入。
リーマンショックなどで世界的な長期にわたる不景気。
そこで「モノに対する付加価値」が剥がれ落ちる。
付加価値がどうあれモノはモノ。


そして3.11によって「モノ」自体の信頼も失われる。

形あるものは必ず壊れる。
絶対そこにある日常、変わりなく明日来るはずの日常。
それもないかも知れない。

今だけが信頼でき、価値がある。
そこで消費がモノ→コトへと変化する。


体験することに価値がある。
「モノ」を持つのは当たり前。
だから必要な分だけ、最低限でいい。


インターネットはモノではなくコトの集合。
読むことで知識や知恵、経験が得られる。

ブランド品はいらない。
服はユニクロでいい、その代わりにニコニコ動画のプレミアム会員になろう。

CDを買って「モノ」を所有したくない。
Youtubeで観て「コト」を得られればそれで充分。

ネット企業はモノを売るのではなくコトを売る。
特定多数の他人とコミュニケーションするための「SNS…コト」を提供することで利益を得る。
最近流行りのバイラルメディアはネット上のアーカイヴを紹介し「ユーザーに視聴する機会…コト」利益を得る。
自らクリエイティブにモノを作り出しそれを提供するわけではない。


岡田斗司夫が言う「評価経済社会」にしてもこの
「モノの信頼の失墜→コト(評価)の価値の台頭」
がある。

「ストーリー消費」と言うのは、この流れで見ればバブル期が最盛期だったのかも知れない。
単なる「モノ」ではなくそこに付加価値……ストーリーを乗せることで価値を増し利益を得る。
しかし今は「モノ→コト」へと変化した。

ラストトムライに、なりたい。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。

本当の情報化社会がやってくるにはまだ少し時間がかかり、今は近代化による産業や経済の発達による「富のゲーム」の拡大が最高潮に達している時代、すなわちラストモダンなのだそうだ。

もちろん最高潮に達しているということはすでに衰退が始まっていることを意味するのだけど、だからといってそれが急速に崩壊していくとは限らない。

「富のゲーム」へと賭け金を払って参加しているのは他でもない人間たちなので、その考えとか態度が変化しない限りは状況はなかなか変わらないし、変化があったとしても非常にゆるやかに起こっていくのだろうとも思う。

かつて社会は「社会システム」を構成する要素としての個があり、それが家族と言うコミュニティを最小単位として構成されていた。
ところが高度経済成長期の「出稼ぎ」を切っ掛けに「家族」というコミュニティから個人が離れ「個」として存在し始めた。
モノの価値が下落し、コトの価値が上がった。

社会通念や価値観は必ず変わっていくし、気づかないうちに自分も変わっている。
「個」ではなく個と個が「網」として、繋がるべきものが繋がるネットの存在がそれを加速させたのかもしれない(逆に繋がるべきでないものが繋がる「地獄インターネット」も出現しているが)。

情報社会化のベクトルも、これまたアメリカよりは多少遅れてではあったにしても、間違いなく作用し始めていたのである。それは東浩紀的にいえば、政治イデオロギーとも消費社会の物語とも無関係なポストモダンの「サブカルチャー」の世界を、私流にいえば、ラストモダンの「智業」や「智民」の初期形態を、生み出す力として作用していたのである。

情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる: 3.3.0. 戦後日本の社会変化

インターネットによって様々な障壁が下がり、個の持つ知識や能力が無償で開陳され(承認欲求論、フリーミアム辺りの論)、集合知(烏合の衆とも言うが)としての「ネット社会」が漠然と形成され始めた...。


...風呂敷広げまくった途中だがこの辺で終わる。
結論無しで書いてるので広げ過ぎ。前段と後段でのズレが大きすぎる。
いずれまとめる。
情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる    NTT出版ライブラリーレゾナント001