「音楽なんてCDやYoutubeで充分」 という思考・嗜好が好きじゃない

commmons: schola vol.13 Ryuichi Sakamoto Selections: Electronic Music
「音楽なんてCDやYoutubeで充分」
という思考・嗜好が好きじゃない。
以前から思っていたが、上手く言語化出来ていなかったので試してみる。




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録音

CDにしろ何にしろ記録媒体に音を情報として記録する際にはデータ化が必要になる。
「音」と言うのは空気に存在する波。
空間に満ちる空気に波が発生し、偏り「粗」と「密」の部分が出来上がる。
それをマイクで切り取り空気の「粗密」をデータに置き換える。

ところが音と言うのはどの空間も一定ではない。
楽器から発せられた音、客席に届いた音(減衰している)、客席後方に届いた音(減衰大、反響音有)などマイクが配置された場所によって音は異なる。

そこで録音の際には複数のマイクを配置し、ミキシングと呼ばれる作業を行い複数マイクの音データを調整し配合する。
あるいは何度も録音しているなら別の機会の音を切り貼りする。
一週間前のテイクのフレーズに今日のテイクで録音した音を継ぐ、ということもできる。

このミキシングの作業によって記録媒体に収録される「音データ」は加工される。
その時、ミキサーの技術やセンスによってに「いかに生音に近づけるか」という指向や「こんな風に聴かせたい」といった意図や「ここは隠したい」といった修正も行われる。

ーー変わってしまう音を、どうやって良い音で録るんですか?

そこがプロフェッショナルとしての腕の見せどころです。アナログのレコーダーでは、インプットとアウトプットつまり入力される音と再生されてくる音は、必ず変形するという前提で、仕上げをイメージしてセッティングするんです。
ミキシングの段階から。その細かい調整、計算が必要なんです。
例えば、生で聴いた音はちょっと耳に痛いくらい、でもそれをテープで録った音を再生すると、丸くなってちょうど狙ったいい音になる。
ミキシング・コンソールのアウトプットの音はまだ完成ではなくて、テープをプレイバックして初めて固定された完成したミックスが聴ける。テープも、封をきって一回目に録音する音と、それを消しながら二回目に録音するテイクでは、2回目以降のがほんの若干ですが高域が丸くなる。
本来、録音するという事は音を固定したい訳でしょ。みんなに同じ音を聴かせたい。
一回目と二回目で音が変わっちゃ困るんですが、アナログではそれは常識だった。

デジタルになって一番の違いは、インプット・スルーと録って再生した音がアナログほどは変わらない点と、あとはヒス・ノイズがなくなったことです。

特集: 「音質の行方vol.1」オノセイゲン、ロング・インタビュー! - OTOTOY


会場も楽器

先日「scola 音楽の学校」にオノセイゲン氏が出演していて
「楽器を演奏する人はね、会場も楽器だと考えた方がいいね。会場を鳴らす」
という旨の発言をしていて、とても名言だと思った。

楽器は鳴らしている演奏者が聴く音と観客が耳にする音とは異なる。
同じクオリティの演奏をしたとしても野外ステージとライブハウスでは音が違うし、スピーカーの場所やセッティングによっても異なる。
単に楽器を鳴らすだけなら、練習すれば誰にでも出来る。
そこから会場で「どんな風に聴かせるか」と言うところにまで意識が向き、その場所に応じて音を作りこめるのが(独りでは難しい)一流の演奏者なんだろう。


過去に録音(記録)と言うものは存在しなかった。
音楽はすべてライブで行われ、その場所で聴けないならそれは聞く機会が失われてしまう。

ところが蓄音機や磁気テープや記録メディアや方法の発展によって「録音・録画」と言う文化が発達した。
ライブで、生でなくてもその音や映像を聴く・観ることが出来る。
ライブで行われているものを「録音」「録画」するのは、ライブそのものを遺す行為ではなく、あくまでもそのライブの一部の「音や映像」を記録することしかできない。


ライブの行われている空間には、数多くのデータが存在し、リアルタイムで更新される。
それは音に限らず、その時間の映像や温度や匂いや振動や五感全てに伝わる情報、場所による音のばらつき、周囲の反応、その反応を受けた自身が他者と空間を共有する感覚など様々な要素が存在する。

音楽とは「音」だけのことではない。
しかし記録媒はそれらすべてを保存できない。
劇団、本谷有希子「遭難、」通し稽古映像を一部公開 - YouTube
映画と演劇を記録した映像は、そもそもが違う。
演劇は、同じ空間を共有しながらも隔絶された舞台の上で演じられる物語を観客がリアルタイムで鑑賞するもの。
その演劇はその場限り。同じ演技を繰り返すことはできない。
同じ舞台でも日にちが違えば役者のコンディションも違うし観客によっても雰囲気が変わる。
幾らそれを録画しても多くの情報が欠落する。

映画とは、意図的に一部の映像を切り取り、恣意的に物語や音楽を付けたし作品に昇華して作り上げた…初めから映画にするべく造られたコンテンツ。
そして一部しか見せない(一つの画面で)からこそ、モンタージュやクロスカットといった映像技術が発展した。
演劇や演芸を生で見るのとテレビや映像で見るのは全く行為として異なるし、そのように認識される。


しかしライブ(コンサート)とCDやYoutubeの映像は混同され…代用品とされてしまうことがある。

CDで配布・リスナーが聴くために作られる音、というのは映画と同じで加工しそれ用に造られたコンテンツ。
記録媒体に収めるために数多くのデータを削り落とし、加工し、エンジニアによって意図的に作り上げられた音。
加工したデータは配布するためにエンコードを行う。
フォーマットによっては音を大きく削り取り、データの容量を下げることもある。


恣意的な音

丁度、今日こんな記事が挙がっていた。
迷惑スペクタクルのCDの音質をいい加減どうにかしてほしい件 | ここから見える地平
以前にblogで取り上げたラブライブもそうなのですが、素人目に見ても、それってどうなのかなぁと思うような処理が行われたまま出荷されるアニソンが世の中にあふれてしまっていて、なーんでこんなことになってしまっているのだろうと、頭を抱えてしまいます。

アニソンのような初動で大きく売り上げて、その後は売れなくなるといった性質を持っている音源は、真面目にmixやmasteringに取り組んだところで、売上が変わらないのではないかと思います。
だから、誰かが、音が悪いと気づいたところで、それが知れ渡る前に、多くの人が購入済みになってしまっている。それに、音が多少歪んでいたところで、多くの人は気にしない。
従って、そういった細部にこだわったとしても、売上は伸びない。音楽を生活の糧にしている人にとっては、そんなこだわりにはお金にならないし意味が無い、と言うことになってしまうのかなという気がしています。

元の音がどうあれ、加工する人間の技術が「ぐぬぬ…」なら音も「ぐぬぬ…」になってしまう。

元音→マイク→データ化→加工→エンコード→記録媒体→デコード→スピーカー(ヘッドフォン)

元の音を切りとり、誰かの耳に届けるまでの過程で一つでもしくじれば元の音は正しく伝わらない。
長い長い伝言ゲーム。
そして元の音が正しく完全に伝わることは決してない。
雑な仕事をする人間が間にいれば、雑な音が届けられてしまう。

ーーセイゲンさんがこだわってる一番良い音というのは、言葉にするとどういう音なのですか?

録音エンジニアという立場では、こだわっている音ってない。節操ない言い方に聴こえるかもしれないけど、クライアントあるいはアーティスト本人、作曲家、ミュージシャンが望む音こそが良い音でしょ。エンジニアの音楽を作っているんではないですから。
ジャンルやアーティストにより音作りの手法が違いますが、それをエンジニアの視点で枠をはめてしまってはつまらないですよね。
(中略)
録音するってことは、コントロール・ルームに戻ってきて、ミュージシャンが今の自分の演奏をプレイバックできる。あるいは、去年のライブとか、40年前のレコーディングを現在によみがえらせて聴くこともできる。ニューヨークでやっていたものが東京で聴ける。タイム・マシンのように場所や時間が違っても体験できる。アナログの音かデジタルの音のどちらかが良いってのは好き嫌いの話でもある。
できればその場の体験と全く変わらないのがいい。「マイクロフォン通ってたんだ」「録音だったって分からなかった」「実際にその場で演奏してると思った」とか。その体験を提供する事が録音の最終ゴールだと思ってる。録音エンジニアとしては、それが目的。
一方で、ミュージシャンという立場では、これはもうすごく個人的なことになってしまいますが、自分の好きなミュージシャンを集めて、録音した音から彼らの顔や表情ができるだけリアルに浮かび上がってくることにこだわるね。リスナーのことは考えないです。こだわりは、自分が好きな音かどうか。自分が満足できるクオリティであるかどうかです。たまたまそれをシェアして楽しんでくれるファンが少しでも居ることは本当に嬉しい限りです。

特集: 「音質の行方vol.1」オノセイゲン、ロング・インタビュー! - OTOTOY


堀井憲一郎「落語の国からのぞいてみれば」にこんな一節がある。


落語は、生身の芸である。ライブで見ないと意味がない。ところが当節、死んでも終わりにならない。写真がある。録音がある。録画がある。死んでも残る。それが繰り返し再生され、志ん朝が死んでから生まれた人さえ、志ん朝を生きてるかのように見たり聞いたりできるのだ。
むずかしいところです。
八代目桂文楽という噺家がいた。名人だとされている。
昭和四十六年没。
あたしゃナマで見たことはありません。このあいだ、まとめてCDを聞いた。聞いてみると、とても達者なのだけど、声が甲高く、喋り急いてるのが気になった。そのとき、ああこの人は実物を現場で見てないと意味がないんだ、とつくづくおもいました。
高座をじかに見ればおそらく圧倒される気配を発してるんだろうな、と想像はできました。でも一度もライブで見たことがない人を聞いたって、伝わってこない。死んだんだもん。死ぬ者貧乏。死んだら終わりだよ。死んだ人のことは、もうかまわなくていいんじゃないか。死んだ人の落語なんて、消えゆく記憶の中にあればいいんじゃないか。
堀井憲一郎「落語の国からのぞいてみれば」
CDやYoutubeが嫌いだ、っていう訳じゃない。
iTunesでだって、CDだって買ってるしYoutubeもよく使う。

ただ「CDやYoutubeで音楽なんて充分」と言うひとの「音楽」に対する理解は一部を知り、全てわかった風に思っている勘違いに過ぎない。
加工され作り上げられCDに記録されたコンテンツと多くの情報が欠落したYoutubeの映像。
どちらが上とか優れているではなく、違うものなのに同じ俎上で「音楽とは」なんて偉そうに論じられているのを見かけると辟易とする。


「音楽なんてCDやYoutubeで充分」
という思考・嗜好が好きじゃない。
なにひとつ充分じゃない。


余談:LOVELESS

先日のマイブラの来日公演にて、会場で耳栓が配られた。
マイブラをよく知らない人には意味が解らないだろうが、ケヴィン・シールズの指向する音と言うのは空気の粗密を全て密、ノイズで埋め尽くそうと言うもの(と思ってる)。
何重にもダビングされた音の波によって「時間・空気がすべて音で満たされた限定空間」というその場限りのインスタレーション……音のオブジェを作ろうとしたように思えてならない。
もちろんそんなオブジェはCDにもYoutubeでは切り取ることしかできない。
アタリティーンエイジライオットやアレックエンパイアやダイナソ―ジュニアやギターウルフや……彼らの「音によるオブジェ」はメディアに収まらない。


それにしてもマイブラ来日公演行っとけばよかった(未だに後悔…)。
My Bloody Valentine - To Here Knows When (Live ...

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