幸せとか不幸せとか誰が決めるんだ?

他人の批判ばかりしている人が不幸なのには理由がある - 能面ヅラ美
他人の批判をしている人は不幸せだ、という記事。

いつも「○○は××だ」という主張がある時、反対に置き換えてみる。
今回も変えてみたら、どうにも据わりが悪い(書き換えた記事は挙げない)。

感情とロジック

「好き/嫌い」という評価軸と「批評・批判」は必ずしもイコールで繋がらない。
感情を元に好き・嫌いを言うのと、論理的におかしな部分を「これはおかしい」というのは全く意味合いが異なる。
「嫌い→だから批判する」
「間違ってる→だから批判する」

同じ「批判」だが感情/論理も原因箇所(起点)も異なっていて行為として全く違う。


脈絡なく「お前が嫌いだ」「間違ってる」と言われるのと、「皆さんこうですよねー」と主張した時 誰かに「それは間違ってる」と言われるのは違う。
お前が違うのか、お前が言ったことが違うのか。
お前が嫌いなのか、お前の言ってることが嫌いなのか。
間違ってないのに間違ってると言われたのか、間違っていて間違ってると言われたのか。


「自分の好き嫌いという感情的な好みを元に批判をする→不幸」ということなのかも知れないが、結論が「不幸」なら反対の行動の結論に「幸せ」がなければならないのだけど、反対には
「自分の好き嫌いという感情的な好みを元に賛美をする→幸福」
になってしまい他人をほめてばかりいる人が果たして幸せなのか?
疑問に感じる。
いわゆる「ポジティブシンキング」の基礎は確かにその部分なんだが。
「あの人の言っていることはここが違う」
その行動を全否定するならこの世界は成立しない。
何もかも世界は正しくなく、間違いを疑問に思い正されるから世界は回る。
理不尽で無慈悲で残酷で納得がいかない世界で生きてる。


幸福とはなにか?

批判ばかりしていると周囲から不幸せと思われても、疑問を持つから詐欺に騙されることもなく、ネットリテラシーも高くデマにも流されずそれはそれなりに幸せかも知れない。
街頭でヘイトスピーチやってる連中だって楽しそうだ。

部屋に閉じこもって何もしない毎日を過ごすのは、ひきこもりにとって「その場での幸せ」を感じるが、人生全体と言うスパンで見れば可能性が制限されリソースが失われ不幸でもある。
甘いものを食べることは「その場では幸せ」だが、糖分や脂肪分が多く健康面から見れば必ずしも幸せとは言えないし、食べ過ぎれば健康的には不幸にもなりえるし、甘いものにかけるお金を他の何かに使えたかもしれないと考えればその失われた対価が相当かどうかも疑問がある。
女性にフラれるのは不幸せだが他の女性と出会う未来が待っているなら、それは幸せだともいえる。
幸せはどこかで不幸せな側面があり、不幸せにはどこかに幸せがある。
幸不幸なんて誰かの価値観次第、誰かに言われて決まるものではない。


余談

元々の言及先記事が、ブログ開始当初はてなブログふざけんじゃねぇぞ!!」「はてなマジでどつく!!!!」と批判(と言うか感情論の悪口)しまくり、しょっちゅう炎上ネタを投下しまくったブログなのにも拘らず、過去からのブーメラン完無視で「嫌いな物を批判する方がかっこいいって風潮あるよなー。批評家気取りかよ?ひどいよなー」と言ってる結構な開き直りっぷりなのに「その通りだー」と能面さんが乗っかって批判する人を批判するというブーメランをこれまた投げっぱなしなのも、それはそれでどうかと思ってしまったりすることは別に批判ではなく単なる一読者の感想であって、本人が幸せならそれでいいですが、疑問を感じたのでこの記事を書いてみましたけど、批判ととられてもウチは別に不幸じゃないしア●ウェイも関係ありませんし、どうか世界中の人が幸せになりますようにとお祈りしつつ記事を〆たいと思います。
みなさんハッピーな週末をお過ごしください☆
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