主語が大きすぎる(補:ネットからいなくなっても変わりなく世界は回り続ける)

ネットに大した意味は無いってわざわざ言わなきゃいけないってことは、ネットの影響力が高まりつつあるって事なのでは - grshbの日記
言及されたのでたまには追記してみよう。
基本、書かないが今日はネタもない。

この手の追記記事は大概読まれないが…。

現実よりもネットの方が影響の度合いが低いのは、ネットが現実の中の一部分に過ぎなくて、割かれるリソースも限られたものでしかないからだ。もしネットが全てという人のコミュニティがあれば、人が居なくなることはネットでも現実と同じだけの影響力を持つだろう。でもそんなことは仕組みとしてありえない。人は現実に生きている。

なんでまあ、誰に言われなくとも、ネットの影響力なんか大したことはない。もともとそういうもんだ。それでもあえて「君がネットから居なくなっても世界は変わらずに回り続けるんだよ」なんて事をいう人がぽつりぽつりと現れる。前々からそういうことをいう人は少なからず居たと思うけど、もしその割合が増えてきているとしたら、それはその分だけネットの持つ影響力も増してきているからなんじゃないだろうか。

記事で書いているのはあくまでも現実社会・物理世界では「凡人」であり「一個人」でありながら、ネットでは何かしらの注目を浴びたり「自分の書いていることが数千人、数万人に読まれて自分の書くことに意味を感じている人」を対象にしている。
これはすべての人に当てはまるわけではない。
記事での主語は「ネットで情報発信を行っている人」を想定しているので、まったくその手のことを行っていない人などには当てはまらない。
元々の言及記事もスマホをいじりすぎるとコミュニケーションが崩壊してブログも書けなくなってしまいそうな件」なのでブロガーやキュレーションを行うひとを想定している。

「アナタがネットからいなくなっても、何も変わらず世界は回る」
の“アナタ”の主語は不特定多数のネット民ではなく、ウチも含め「ブロガー」「キュレーター」を自認する泡沫の人々を指してる。
誰にとってもネットとは何の意味もないことだ、という主張ではない。
主語が大きくなると読み違えが起きかねない。

「アナタがネットからいなくなっても、何も変わらず世界は回る」
とは
「アナタの情報発信がなくなっても」
「アナタの情報共有が無くなっても」
「アナタのブログが無くなっても」
「アナタのアカウントが無くなっても」

という行為などを指している。
注意して頂きたい。


そのレベルを少し引き下げたぐらいの影響はネットでも出る。匿名掲示板から名無しさんの一人が消えた場合とかは誰も気がつかないだろうけど、Twitterとか個人が明らかなコミュニティでならそれくらいの影響はある
ネットでの「死」「廃墟」が現実と異なるのは、ネットでの痕跡はあくまでも「能動的な活動記録」であるのに対し、現実世界での自分と言うものは能動的であれ受動的であれ「そこに存在し続ける限りあり続ける」という違いがある。
最近よく「人生の意味とはなんだ」みたいな厨二っぽい記事が散見したが、人生に意味があろうがなかろうがそこに産まれれば死ぬまで、毎日飯を食い、糞を垂れ流し、惰眠をむさぼり、欲望のままに生き続ける。

ネットは(業務は別として)別に誰かに言われてそこでツイートしているわけでも無ければブログをやってるわけでもキュレーターになってるわけでもない。
ネットの影響力、だのなんだの言っても結局は「ネットをやろうと思う」からネットに自分(アバター)が存在するわけで、FACEBOOKTWITTERは義務でもなんでもない。現実世界の存在の意味性とネットの意味性を並べて

でも思ったんだけども、それは現実でもほとんど変わらないんじゃないだろうか。一人の人間が急に現実から消えてしまっても、2週間もすればいつもの生活に戻ってしまう。それまでと何も変わらないような生活。その人がいない生活が普通になる。
というのは筋が悪い。
ツイートするからこそそのアカウントは「活動」しているのに対し、現実世界の自分はそこにいるだけで「活動」している。

ツイートしないアカウントはもう死んでいるのと変わらない。
今はツイートしないが、いつかするかも知れないし、しないかも知れない。

ROM専のツイ垢をどうやれば「生きているか死んでいるか」見極められるだろうか。

アカウントを消さず、ツイートも消さず放置しているツイッター垢は、果たして生きているのか死んでいるのか。
ツイッター上での「生死」の境界は奈辺か?

ブログが「廃墟」と呼ばれるが、主を失い、更新されないまま放置され、デジタル情報であるが故に劣化することもなくサーバーが存在する限りそこ(アドレス)に存在し続ける。
消されればはっきりするが放置されることも多くある。


現実世界での「死」とネットでの「死」は異なる。
ネットで死んでも、現実では公園に散歩にでも行ってる。
ネットでアカウントが消えてもひそかに別のアカウントを作って復活だって出来る。
昔のアカウントなんてパスワードも忘れてしまった…それなら昔のアカウントは死んでいるということにならないか?


そういうことが言われるのは、ネットに没入しすぎるのを牽制するためだ。牽制しなきゃいけないってことは、牽制するためのランナーが塁に居なきゃいけないわけで、その牽制の機会が増えてるってことは、それだけ出塁するランナーの数も増えてるってことになる。その出塁者がどこに走っているかっていうと、ネットの影響力を高める方向だ。んでもって、この場合牽制の成功率はそんなに高くないんじゃないだろうか。よく言われることだけど、大体の警句はそれを必要とする人のところにまで届かない。そうすると、徐々にネットの影響力は高まってくる
ネットの影響力の高まり、が続くのであればそれは価値観のパラダイムシフト...岡田斗司夫的な評価経済社会「モノからコトへ」「貨幣よりも求められる評価」が襲来するのであればネットと言うものはさらに拡散し、老いも若きも「ネットでの活動は当たり前」になるんだろうが、今のところそういう流れは見えない。
最近はFACEBOOKのユーザー数が減ったりTWITTERの閲覧も減ってるとか言う記事を最近見かけ、どちらかというと今のかたちの「インターネット」と言うものが終わりつつあるような感触すらある。
次のかたちがどんなものかは社会学者にでも任せるが。

現在にしろネットの影響、という意味で言えば例えばKlout数やネット炎上で自殺してしまう議員のようにネットと言うものが現実に対して浸食し影響を与える場合が考えられる。少なくとも政治家やタレントといったイメージ商売の人間にとっては「たかがネット」ではないが。


ネットでは、確かに誰もが影響力を持ちえる。
かつてアンディ・ウォーホルは「未来には、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう」と言葉を残したが、今のネット世界はどんなに社会的に評価を受けていない人間でも有名になれる可能性がある(悪名である可能性もあるが)。

このブログにしろ通算で数百万PVもあるが、現実世界でそれほどの人間に自分の考えを話すことなんてまずあり得ない。
しかしウチ程度の「ブロガー」は、どこにでも転がる凡百の1人でしかない。
“ネットの極北”“修羅の国”はてなの極々一部で有名になったかも知れないが、ネットは広大過ぎて数百万PV程度では何の影響力すらない。
どこぞの炎上書店が言う「影響力の魔法」なんて程遠い。


「ネットの影響力」と言うものが現代に住む人々のネット依存と深化と言うテーマであればウチの記事とは話が違う、という追記でございました、この辺りで終わります(忙しい)。
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