ウォーホルとサンローラン デザインと引用と記号

※以下、無教育素人の戯言ですのでキチンとしたものは(チェコ好き)の日記さんをご覧ください
Casa BRUTUS (カーサ・ブルータス) 2014年 03月号 [雑誌]
アンディ・ウォ—ホルの名言7選 現代人のウォ—ホル的憂鬱 - (チェコ好き)の日記
ウォーホル展やってるなら観に行きたいが時間がなさそうな予感。

先日、丁度録画しといた「ファクトリーガール」を観たばかり。

「ファクトリー・ガール」予告編 - YouTube
「ファクトリーガール」はウォーホルのミューズ イーディ・セジウィックをベースにした映画。
都会へ出て来た女の子がウォーホルというアーティストに逢い、人生を翻弄されていく……というよりも田舎から出てきて浮かれて勘違いして勝手に自分で破滅していってるように見える映画でしたが。


デザインの記号化


(ウォーホルが出演してたTDKのカセットテープCM)
アメリカンポップアート
大量生産・消費社会のデザインと言うものは機械的に作られる無機質な意匠に対して有機的・人間的で温かみを感じさせるデザインを行うことで生産物と消費者の間に立つ。
そういったデザインは、個性ではない単なる「記号」。

ウォーホルの解釈にも「記号」という言葉がよくつかわれる。

かつて絵画は貴族など上流階級にとってのもの。
一枚の絵を画家が時間をかけ、何もないキャンバスに絵の具を使い技術と技巧を尽くして一枚の絵を描いていく。

ところがウォーホルは、写真をシルクスクリーンで切り取り、色をはめ込み、何枚も何枚も作り出す。
ウォーホルのアート技法は、音楽で行われる「サンプリング」に近い。
既存の文脈から切り離し、張り合わせ組み合わせ、加工し、新たな文脈を作り上げる。それはさまざまな既存のものからの引用の集合体。
そしてシルクスクリーンだからこそ何枚も同じ絵を作ることが出来る。
大量に生産された「芸術」の価値とは?
コカコーラの瓶やキャンベルスープの缶と言う市場に出回る日常にありふれ、人々が価値を感じないデザインを、加工し芸術として額縁に落とし込んだ時に、そのキャンベルスープのデザインに価値はあるのか。
加工しサンプリングを行った技法に価値があるのか、それともウォーホルという芸術家の物語があるからこそ価値があるのか。
人々はデザインではなく「記号」としてしか認識していないスープ缶の意匠。
だとしたら額縁の中のキャンベルスープの缶のデザイン自体に価値は存在するのか否か。

ウォーホルという稀代の芸術家が作り上げた作品をデザインとしてプリントしたTシャツは芸術なのかただの服でしかないのか。だとしたら芸術の「価値」は果たしてどこにあるのか、と。
記号をアートにしたウォーホルの作品自体が記号として機能するメタな構造。
※画像はヒスのTシャツ
※余談だが、ウォーホルと言うと上記のように「芸術と大量生産」を思わせるアーティストのイメージが強いが、実際ウォーホルはそれほど大量生産や無個性化へのアンチテーゼって意味を込めてなかったらしい、なんて話も聞く。


イヴ・サンローラン

ファッションとアート、というとまずイヴ・サンローランを想起する人は多いと思う。
サンローランの才能の特質は「空疎な天才」と表現しうるが、それは「非独創性の天才」、つまり、独創性の欠如に特徴を持つ類い希な才能ということである。
引用すること、citationの天才ということである。これは、模倣とか剽窃とかいった意味ではまったくない。「空疎vacuity」「非独創性unoriginality」ということは実は、情報化・記号化社会に向かう変化の中では、実に有効な能力、天才である

http://www.kci.or.jp/research/dresstudy/pdf/D54_Inagaki_Yves_Saint_Laurent.pdf

サンローランは、三次元を二次元に落とし込んだ絵画を服の上に展開をして見せた。
今であれば当たり前のことかも知れないが、絵画としてあるもののデザインを改めて「ドレスへと引用する」発想はとても画期的だったし当時称賛を浴びた。
絵画は絵画として描かれ、そこで意味性を持ち評価を受け価値を得ている。
そこからデザインだけを写し取り、今度は服の上に引用したときその服の価値はどこにあるのか。
デザインか、その発想か、服自体か。

近年で言えばラフ・シモンズはレオナール・フジタ藤田嗣治)の絵画を服に落とし込んだり、ピカソやBRIAN CALVINの絵画をデザインにしたりしてる。


芸術の価値

バスキアのすべて [DVD]
ウォーホルに見出され翻弄されたジャン=ミシェル・バスキア。
バスキアのストリートアートは額縁の中のアートではなく、路上のラクガキからウォーホルが才能を見つけ売り出しマスコミにも祭り上げられた。
壁に書いてあればただのラクガキに過ぎないものが、既存の芸術家に才能を認められることで名が売れ、額縁に収められることで価値を得て評価を受ける。
その「ウォーホルに見いだされた」「近代アート」というフレームに収まって初めて評価されたバスキアと言う存在もとても興味深い。



謎のアーティストバンクシー
バンクシーの作品もバスキアと同じく路上での「ラクガキ」グラフィティアート。
しかもステンシルのグラフィティは型紙さえあれば描ける。
自分の名前を切り離し、作品を額縁に入れればどれだけ売れるか、という実験(上記ムービー)も行っている。


アイ・ウェイウェイ


ウォーホルのキャンベルスープ缶には、ニヒリズムや社会的なメッセージなんて無かったんじゃないかという気がする。
アイ・ウェイウェイのヒマワリのタネのインスタレーションには中国と言う国の大量生産と低賃金で働く労働者などの意味合いが読み取れるが、ウォーホルはもっとシンプルな一時的な意味合いしかこめてなかったんだろう。
彼の作品は、鑑賞者の「見たいもの」をそこに投影します。私が鏡の前に立ったときと、あなたが鏡の前に立ったときでは、そこに映る像は異なります。ウォ—ホルの作品も、きっと同じです。私が観るウォ—ホルと、あなたが観るウォ—ホルはちがう。どちらのウォ—ホルも正しく、あるいはどちらのウォ—ホルもまちがっています。ただ、「鑑賞者によって異なる像を結ぶ作品である(その傾向が他の芸術作品に比べて顕著である)」ということを知っておくと、よりウォ—ホルの世界を楽しめるのではないかと、私はそんなふうに思うんです。

アンディ・ウォ—ホルの名言7選 現代人のウォ—ホル的憂鬱 - (チェコ好き)の日記

ウォーホルの作品は、シンプルでなにかありそうだからこそ鑑賞者はその裏に意味性を考えてしまう。
でも本当はウォーホル自体は、からっぽなんじゃないだろうか。
からっぽだからこそクリエイティブではなく何かを引用し、なにかありげに見せる。

社会的に知られたマリリン・モンローやジャクリーン・ケネディ
事故現場や電気椅子、それらの写真を何度も繰り返すことでひとつひとつの意味性が希薄になり、存在する事物・事象ではなく「記号」としての側面が強くなる。
無意味の意味。

今やウォーホルも本来的な意味や価値より、ウォーホル自身が記号化していてモティーフになっている。

「アイ・ショット・アンディ・ウォーホル」なんて映画があったが、ウォーホルは一芸術家ではなく物語のキャラクター…記号として扱われる。
ウォーホルという記号、ウォーホルという空疎な虚像とキャラクター。
※そういえばウォーホルと同時代のミュージシャン ボブ・ディランをテーマにした映画「ドント・ルック・バック」なんてディランを記号化してるようにも思える。さまざまな役者が一つの映画の中で同じ「ボブ・ディラン」と言う記号演じるのだし

そのうち、ウォーホルはまた気がついた。「新しいものとはわからないものなんだ」ということである。それが何かさえわからないもの、それだけが新しいものなのだ。ということは、「これ、わからないね」と言われれば自信をもてばいいはずだ。ただし、100パーセントわからないものにしなくてはいけない。全部わからないのが、いい。「ここがわからない」と言われるようではダメなのだ。ウォーホルは、こう、確信した。「とくにアートは作れば新しくなくなっていく」。

1122夜『ぼくの哲学』アンディ・ウォーホル|松岡正剛の千夜千冊


物語と価値

最近、ピアニストの事件があり「物語と価値」に焦点が当たっていたりするが、物語消費は遥か昔から行われていて、その価値に対してもニヒリズムで懐疑的な視点は存在した。
作品の意味が解らなくてもその背景を聞けば作品の価値を感じるように、音楽や絵画などの芸術と言う、漠然とした定量化が難しい付加価値しか持たないコンテンツの評価は物語や評判などで価値が左右される。
アンディ・ウォーホルの絵画の意味が解らなくても何となくすごいと感じればそれはそれで正しいし、解説本を読んでから鑑賞してもそれはそれで正しい。
ピカソゲルニカを初見で見て意味が解らなくてもその絵画の力は感じることが出来る。
描かれた背景の物語を知ってから見ればまた違って見える。

だからといって物語を知ったから価値観が歪んでしまう、ということもない。
そうやって何かを知らずに見て感じた感覚、知ってから感じる感覚。
それらもすべて正しい。

※思考が飛び過ぎて散漫な記事になったことをお詫びいたします
アンディ・ウォーホル展 永遠の15分 Andy Warhol: 15 Minutes Eternal