不便で手間がかかることを楽しむ

ナインティナインのオールナイトニッ本 vol.6 (ヨシモトブックス) (ワニムックシリーズ 207)
えーと、ラジオネーム「ビビアンみところ責めでコンチータ」さんからいただきました。
「あざなえるさんこんばんは。
先日、こんなブログを読みました。
あるラジオ番組の「ハガキとメール問題」 - いつか電池がきれるまで
山下達郎のラジオ番組のリスナーからの投稿をこれまでハガキでしか受け付けていなかったがメールにしようかと提案したらリスナーからハガキの方がいいというレスポンスが帰ってきた、というお話です。
これをどう思いますか?」と言うお便りなんですけども、えー。
これに関しては、もう実利か感覚かという話なわけですが。


確か「怒り新党」でやってたと思うんだけれど、岩手に苫屋という宿があって、そこの予約は手紙かハガキでやらなきゃならないそうです。
電気はあるけど電話もないしメールも当然ない。
苫屋:観光案内:野田村観光協会
当然不便だけど予約客は多い。
この現代で「不便」であることが差別化の武器として機能してるんですね。
宿の人に言わせると「手紙やハガキだと書き手のことが伝わってくる」のだそうですが。

論理的にどーこーではなくて、宿に泊まるという行為は理屈では無くて感覚的なものですね。
そういうノスタルジックな感傷的イメージが大きく影響する。
「情緒」「癒し」とかね、漠然として曖昧模糊としてますけども。
手間がかからず便利で効率的なことは確かに良いことだが、だからって手間がかからず非効率的なことは悪ではないですよね。
錯覚であれなんであれ「思いが伝わる」という幻想を共有しているならその関係性の中で、それは幻想ではなく実際に機能してるんです。


「メールじゃなくハガキで」
というひとにとってラジオに送るメッセージは内容を伝えたいだけの「伝文」ではなく、そのハガキや手紙を送る行為自体に「温かみ」とか手書きの文字に「人間性」を見てるんでしょう。
単に内容が伝わればいいのではない。
自分が書いたハガキや手紙というモノや書いた文字が、距離や時間を越えて山下達郎と言うひとの手元に届く。
自分の元に存在した手紙、ハガキに書きこんだ自分の時間が山下達郎に届きそれを共有する。
それが嬉しい。
だからデジタルでコピーできるメールでは機能しないんじゃないでしょうか。

テレビと違ってラジオと言うのはリスナーとの距離がとても近いんですね。
耳元に囁きかけてくるように感じるし、オールナイトニッポンみたいに生放送でライブ感があったりする。
視覚的情報がなく音だけの情報だからそれを脳内で勝手に補填してる。
だから他のメディアよりも聞き手の「想い入れ」が強いんです。
それは年寄りのノスタルジーとか老害とか言われても、これまで生きてきた個人的な経験と時間でできあがったものだし、その価値基準は他人が論理化してみれば無価値でバカバカしかろうが、思い入れってそんなに簡単でもない。
世の中は論理じゃなく感情で動いてる面だってありますからね。

アナログとデジタルの差って言うのは、数値化出来ない「感傷」や「想い」にある。
何が正しいか間違ってるかではなく、リスナーが「文言以外のモノを届けたい」と思ってるんなら手紙でいいだろうし、そんなものに価値がないと思うリスナーならメールでいいんじゃないでしょうか。
誰かが感じる相対的な価値なんて正しいとか間違いとか言えないと思いますね。

「ビビアンみところ責めでコンチータ」さんにはステッカー差し上げときます。
それでは曲行ってみましょうか。
エコーズで「ONE WAY RADIO」

今夜こそは ラジオと話したい
今夜こそは 僕の話も聞いてよ DJ

RADIO 聞こえているか RADIO 僕らの声が
孤独なメッセージ

ONE WAY RADIO/ECHOES


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