イマジナリーラインを越えて:マンガ文法について

※以下、イマジナリーラインの話題からは逸れてます
イマジナリーラインって?
イマジナリーラインを超えると「最悪」なの? - さまざまなめりっと


イマジナリーラインとは関係なく、「漫画の読み方」マンガのコマ運びの暗黙のルールについて考えてみた - 賽の目記ポータル


Aがいわゆる「マンガ文法」的に正しく左が間違ってる。
リンク先では「Bも今までのマンガ本と違いネットなどの視点移動でなら必ずしもこれってダメじゃないよね?」という話を挙げてる、と。
「右から左」というルールは、ページは繰るもの、右から左へ進むもの、という前提があるからこそ、「左から右」へ視線が戻るのは気持ちが悪いという心理が働くからこそのルールです。

確かにそれはおっしゃる通りで、自分もマンガ文法を厳密に守れ!なんて言うつもりはさらさらない。
ただこの説明になんで「時制」がないのか不思議なので書いてみる。

Aは基本的に①→④へ時間が流れる(あくまでで基本)。
ところがBの場合の時制は微妙。

①から②に繋がるが③の時制は必ずしも②の次で④の前とは限らない。
こういう使い方をされる時は③の時制は②と④の同時(描き方が内面と外面とか)であったり、②から④へ流れる時間の②と④を含む「一瞬ではない同時間」だったりするのかなと思う。

枠線の引き方によっても読ませ方は変わって来るし。
Aと同じ時制でBで使われると、Aの文法に馴染んだ感覚は違和感を覚えたりもする。


が、父の言う百年早いってなぜだったか。それがいまはとてもよく分かります。古典をしっかり学んで自分の形を作れ。19や20の未熟者が土台もないのに新しいことをやるな、と。私も自分の息子たちには新しい事よりまず古い芝居を稽古して欲しい。「形を持つ人が、形を破るのが型破り。形がないのに破れば形無し」。かつて無着成恭さんがそう言っていました。

「おさまってたまるか」 中村勘三郎が語る仕事―1

マンガって漫画家のためじゃなくて、書いて誰かに読まれるためにあるわけです。
文法って言う共通のプロトコルが読者と漫画家の間にあって、それに沿って書くから読者に伝わるし読みやすい。
守らないってのはその「伝えるための努力」よりも「自己表現」を優先するっていうこと。
文法を破って読者に伝える意識がないなら、独りで芸術でも名乗ってればいい。

基礎としてマンガ文法を知った上でこういう表現がしたい、とマンガ文法を無視して描くのは全く構わないけれど、文法なんて特にわからずに感覚的に書くってのは読者の読みやすさを想定できてるのかな?と疑問にも思う。
そりゃあ才能次第でどうとでもなる部分でもあるけれどもね。
高野文子なんて天才がさく裂してる(しかも基礎もある)。
だから「絶対に守れ」ではないし、しかし「知らないってのもどーなんだよ?」と言うことでもあるのかな、と。

コマ割りはマンガにおいて内面外面、場面転換、時制制御、さまざまな役割を担ってる。
使い方は自由だけど使いこなすのは難しいからこそ、基礎ができてる方が読者に読みやすく伝わりやすいマンガが描けるんじゃないのかね、と一読者は思うんですけどね。
コマをどう割ろうが自由だけれど、読者に読みやすいマンガにしてくれ。
作者が勝手にアーティスト気取りの奔放なコマ割りされても困りますわ。
絶対安全剃刀―高野文子作品集