ブログの書き手にあるといい文章力

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なぜWebライターの文章が下手か?そりゃ本当のプロがいないからだよ - Hagex-day info
プロかアマかという話は置いといて、ウェブでの「素人による情報発信」の敷居が下がったことによってさまざまな種類、クオリティの文字が散乱することになった。
年齢、性別、社会的地位、実績、思考力、国語力、何も関係ない。
ニュース媒体などプロの世界において雑誌などの「ライター」と呼ばれる人らはまずライターになってそれから文章力が(実戦によって)上がる。
ウェブでは何かしらの情報を発信し、それが評価されアマ→プロの「ライター」を名乗る場合もある。
イケ○ヤだって(自称)ライターですからね。
ホント国語力は関係ない。

語彙力を強化するためのブックマークレット - はてブのまとめ
「マジ」「神」などの安易な表現に頼らず、ボキャブラリーを増やそう - ぐるりみち。

インターネットは言葉の世界なのに言葉の力がなくても発信者になれるものです。
アマチュアが中心だからですかね。

例えばウェブ媒体であまり見かけない文語体。
口語体と文語体の差も判りづらかったりするかも知れませんが、

あと → また,さらに
やる → 行う
してやる/してあげる → する
してる → している
してない → していない
するけど → するが


文語化すべき口語

などというものが挙げられるかと思われます。
話し言葉とは少し違う表現や語尾が含まれます。
何かしらの発信者として、これらを使える方ってどのくらいおられるんでしょうか。

もちろん文語体を「使うべきである」とするのは筋違いな話でしょう。
ここでは、そのようなことを書きたいのではなく、ここでの文語体に関する提示は
「文字を書くのであれば例え文語体であれ使えるようになっておくのもよい」
というサブスキルのようなものとして捉えていただきたいと考えております。
なくてもよいけれどもあれば便利であろう、と思うのです。


私が読んで思う“上手い文章・記事”には総じて、
・役立つ・面白い内容
・整った構成
・語彙やセンテンスの選択
・ムダを省く(ムダを読ませる)
・特徴・個性

これらの特徴が共通してみられるように思います。

内容だけがよくても文章がダメならダメでしょう。

文章とは、書き手が読み手に伝えるために使う記号です。
ですから共通のルール…言語、文法(プロトコル)に準じてやりとりを行うわけですが、その際に自己流のルールを適用してしまうと記事が非常に読みづらいものになってしまいます。
自己流のルールは自分だけのモノであって相手のモノであるとは限らないからです。
面白い内容も、その内容を読み手に的確に伝えることができる文章があって初めて成立するものだと思います。


ネットの記事、特にブログで言われる文章構成は、

・文頭での概要提示
・それぞれの要素の提示(大→小)
・まとめ
・余談

といった風で、これらを提唱されておられるブログを散見致します。
雑誌媒体や小説などとブログなどのウェブメディアの文章は読まれ方が違うためにそれ相応の最適化が必用であろう、という考え方に準じているわけです。
一度書いた文章をこのような構成を考え並べ替えてみる、というのも一つの方法かもしれません。

SEO系の記事を見たらしい方が「ありがちな文章構成のテンプレート」に忠実に記事を書いているのに内容が「ブログは個性が大事」と書いてしまう残念な様子を見かけるのはいとをかし。
がっかり感たっぷりでございます。


言葉の選び方にはその書き手のセンスや考え方、人間性といったものが表れます。
語彙力やセンテンスを蓄えることは、表現力を増し文章を構成する一助になりえます。

・そして笛の音は風の中でも彼の耳に届いていた。
・かくて朗々と響き渡る笛の音は、吹きすさぶ風にも衰えることなく彼の鼓膜を揺らしていた。

同じ内容であったとしても言葉の選び方で印象は当然ながら異なります。
どちらが良いか悪いか、ではなく表現に応じてそれぞれに使い分けができるというのは、書き手にとっての一つの強みにもなりえるわけです。

…だからあのブログは無視されるようになった。天網恢恢疎にして漏らさずというがまさに…

などと古くからあるようなことわざを用いてももちろん構わないわけですが、それを使うことでの読み手への印象は必ずしもいいとは限りません。
「めんどくせ」
「古っ!」
「だるい」

と感じさせるのは想定されるところでしょう。
書き手からすれば燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんやなどと読み手を少しばかり上から見てしまいかねませんが、知的である印象と近しさは反比例します。
文語体で難しく堅苦しい記事を書くひとと、口語体で軽薄な記事を書くひととなら、知的なのは前者ですが親しみは後者に感じるでしょう。

軽薄な書き手には軽薄な記事を好む読み手が集まりやすいです。
難解な書き手には難解な記事を好む読み手が集まりやすいです。

当たり前の話ですが、では自分が想定する読み手は果たしてどのような方でしょう。


どの様な印象を読み手に与えるかも、書き手の言葉の選び方如何(次第、チョイス)です。
そういう文章の枝葉末節(はしばし、すみずみ)の印象が集まり全体の印象になります。
言葉が自由に使える、語彙が豊富である、ということはつまりどのような印象でも言葉の調整次第でどうとでもなる、という側面もあるわけです。

ムダは本来削るべきでしょう。
余計な枝葉末節を切り落としシンプルにすれば読みやすさが向上しますし、主旨がよく伝わります。

しかしそぎ落とし過ぎる文章は無味乾燥として個性が無くなります。
ムダだが面白く読ませる。
それができればこれに勝る力はないでしょうが、多くは内容に準じずダラダラとただ長いだけ。
要約すれば五行で済むありふれた話を数千文字で書く。
そんな記事に出会うと、そっとタブを閉じる日々です。


……とか書くと超だるい。
何が言いたいかっちゅーと、喋るみたいにしてしか書けへんブログって言うのが多い中で、それ以外の表現を持つのは発信(表現)者としては他との差別化になる。
それが出来ない・やらない人間が多いんやから。
ブロガーブロガー言われても、素人が単に毎日なり定期的に何かしら書いてるだけなんだから、そこで言葉くらい選べん(選べない・使えない)ならうぞーむぞーに埋もれて、はい、デッドエンド。
アクセスないなー、はてブないなー、話題にならんなー、飽きたなー、ブログやめるかなー。
そうなってもそれはしゃーないんちゃうんかなー思う訳よ、正味。
金貰ろて書いてるプロやないんやから自由に書いたらええのになぁ、。

せやかてどれもこれも書き方同じやねんもん。
記事だけコピペして「さてこれはどこのブログの記事でしょうか?」言われて判る記事は少ないと思うで、実際の話。
ネットで「このひとホンマ上手いこと書いてるなー」いうひとは少ないし。

喋るみたいに特徴なく書いてももちろん構へん。
せやけどそれやったら中身で勝負いうことにもなる。
「別にウチは読まれへんかったって構へんわー、書きたいから書いてるだけやしー」言うひとは勝手にしとったらえぇ。
せやけど
「読まれたいけど読まれへん、読まれても評価されへんわ―、あかんわ―」
言うひとはまず自分の文章を見直す、言うのを考えてみるのもありなんちゃうんかなー思うんです。

書き手にとっての「書きたいこと」が中身やとしたら「どう読ませたいか」は文章やねんよね。
そこをキチンと考えんと、凡百のどこにでもあるおもんないブログの一個にしかならへん。

ま、それが出来るんやったらホンマ世話ないけどね。
型があってその型を破るから型破り、型を知らんで元々方がないなら型無し。
型があれへんのが普通やねんからまず型をね…。

とはいえ、たとえ型無しでも読み手に国語力がない、読解力も無い、大したものを求めてないからやっていけるのがこのインターネット言うところやし、せやから低レベルなライターでも飯が食えるんは皮肉な話やと思うわ。


あ、一応言うとくけどウチが国語力高いいうわけちゃうよ、念のため。
いろいろ読んどったらそんな風に思うんやけどなーいう話。
読まれへんわ―ブクマされへんわ―。
ほなさいなら。
世にも美しい文語入門