日本語ラップの「ダサさ」に関する覚書

ウィトゲンシュタインがどーのこーのはない

すとーりーず


吉幾三 - 俺ら東京さ行ぐだ - YouTube
吉幾三俺ら東京さ行ぐだ」にある片田舎の風景とそれに憧れる田舎者の姿。
牛にトラクター、肥溜め、テレビもラジオもない田舎町。

左とん平「とん平のヘイ・ユー・ブルース」
都会へ出て、すりこぎのように人生をすり減らし生きた哀しみのブルース。
和製ミクスチャーのはしり。

ラップやミクスチャーと言うテンプレートがない時代。
テンプレートがないからこその自由だしなんでもあり。
「変な曲」でしかないかも知れないが、しかし現代から見ればマイルストーン的な存在かも知れない。



日本の歌は、途中で歌詞が英語になることが多い。
英語と言うのは日本語よりも語彙からの乖離率が高い。
だから「壊せパラダイム~」と歌う方が「壊せ常識を~」と歌うよりも格好よく感じる。
シーズン・イン・ザ・サン~♪」と歌っても格好よく聴こえないのは、その歌詞が語彙から離れないからだろう。
言葉と日常は乖離している方が格好いいと感じる。


日本語のラップを考えるとき、GEISHAGIRLSは外せないと思う。

Geisha Girls - Kick & Loud - YouTube
ライムは意味を与えた韻を踏み、それをリズムに詰め込む。
GEISHA GIRLSの「Kick&Loud」の歌詞に意味はない。
本来ならばどれもダサい関西弁。
大阪のコテコテの関西弁の単語をひたすら並べてそれをトラックに並べ、言葉から意味は乖離している。
言葉から意味が乖離するならそれは単に音があるだけ。
意味がないからダサくもなりようがない。

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GEISHA GIRLS
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「ダサさ」とは意味から生じる感覚。
本来の文脈から言葉を切り離し、言葉の音だけを並べる「人力の」サンプリング。


映画「SRサイタマノラッパー」で主人公らは埼玉の田舎でラッパーを目指してる。

SRサイタマノラッパー映画予告編 - YouTube
それをどことなくダサく感じるのは面白い。

例えば主人公が、演歌歌手を目指してるとしたら違和感はないのか。
田舎で歌手を目指すというのは演歌であろうがつらい筈。
しかし「演歌」「ラップ」という音楽ジャンルの差が、「田舎の生活(日常)」から「夢」への乖離率の差になっていて「田舎町でのラップ」の方がはるかに目指す音楽としての差を大きく感じる。

MC MIGHTYがその後、都会に出て1人苦しみ、結果アウトサイドへと転落してしまうが、あれにしろ「日本の都会でアウトサイドを歌でなく実践する」とスヌープではなくMC MIGHTYになる。
ギャングや拳銃が相手ではなく、相手はテキヤだしDQNだし鉄パイプで追いかけられる。

田舎であれそこで夢を追いモラトリアムに住むMC IKKUとMC TOM。
そして都会の現実の中でモラトリアムから脱落したMC MIGHTY。



ジェットエクスタシー - YouTube
後藤の「ジェッタシー」は、極めてダサい。
何がダサいのかと言えばその演じる姿にベンジーへのリスペクトがあり、お笑い芸人「なのに」ギターが上手く、ベンジーが書きそうな歌詞を一段落として書いた感じが何重にも「ダサい」。

ベンジーの歌詞は感覚的で詩的だが、後藤の歌詞はベンジーを意識しているからそこに意味がある。
意味を感じてしまうからこそ「ダサさ」がある。


先日、ももクロのライヴビューイングを観に行った。
そこで見たのはコールの入れ込みと、表打ちで振るペンライト。
どの曲でもそうだが、表の拍子で手拍子すると途端にダサさが増す。
どれだけ格好いいラップを決めても手拍子で台無しになりかねない。

5 The Power - YouTube
5The Powerって裏打ちでハンドクラップ、が一番良いと思うのだけれど、なぜかペンライト保持&表打ちで振りながら棒立ちのモノノフ。

モノノフは歌の隙間にコールをねじ込もうと待ち構えてるので、5THE POWERとか堂々平和宣言とか、あるいは「ゲッダーン!」のように隙間がない裏打ちの曲は苦手に見える。
コール、ペンライトという表打ちでのノリ。



ライムベリー - SUPERMCZTOKYO(PV) - YouTube
アイドル+ラップ、のライムベリー。
ラップにある「クール、セクシー」というアイドルと相性の悪いニュアンスを歌詞のかわいさでフォローしようという方向性は面白いのだけれど。ライムベリー自体のクオリティは高いのでこれから売れるかポシャるかは後ろの大人にかかってるんだろう、と思うと興味深い。

未だ夢を見ている - daoko - YouTube
daokoとか泉まくらとかアンニュイなボーカルにライムをそのままで乗っけるやり口が面白い。

ライムベリーの「EASTENDxYURI」に通じるような「元気に普通の女の子がラップやってます」ではなく、ダルさも隠さず「普通の女の子がラップやってます」という渋谷系とかにルーツを求めたくなるようなニュアンスは面白い。
カヒミ・カリィとかmegとか。

卒業と、それまでのうとうと
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日本人のルーツは音頭だし、手拍子は表打ち。
その辺のリズムはDNAレベルで日本人に刻まれてるのかも知れない。

先日、キャリーぱみゅぱみゅと音頭に関し宇川氏が

僕は国民的ポップアイコンは絶対に音頭にたどりつくと思っているんです。音頭をリリースしているのはみんな国民的アイドルで、例えばドラえもんオバケのQ太郎、アラレちゃん、ちびまる子ちゃん三波春夫北島三郎、そしてTHE BEATLES(=金沢明子の「イエローサブマリン音頭」)、さらにはのりピー。ほかにもたくさんいると思いますが、要するに音頭というのは死者を供養する行事である盆踊りのための音楽で、独唱者は司祭であって、合いの手には老若男女、大人も子供もヤクザも商店街のおじさんもサラリーマンも参加する。皆がハレの日を共有するための音楽だし、そもそも祭り自体が感謝と祈りの装置ですし、ケの日常を耐え忍んでようやくはじける非日常の空間で、信頼における象徴がその空間を先導する必要がある。音頭にたどりついたということは、きゃりーもその地位に立っている証拠です。しかもこの「なんだこれくしょん」は音頭で始まって、途中からエレクトリカルパレードのように変調します。音頭でもありマーチでもある。しかもその展開が数十秒の間に行われるというまさに異形の楽曲です。
ナタリー - [Super Power Push] きゃりーぱみゅぱみゅ「なんだこれくしょん」特集 宇川直宏が語るきゃりーぱみゅぱみゅ壱卍(万字)!!!!!!! (6/7)
いわゆる民俗学的「ハレ」「ケ」に関する言及。

音頭は王道の表打ちで、しかしそこに「ダサさ」が生じる。
ダサさとは日常であり、土着的なニュアンス。
民謡も演歌も表打ちのリズムで、だから表打ちを行うとそういう日本由来の土着なものが見えてくる。


向井秀徳は、ナンバーガールを経てZAZEN BOYSに到りそこでNYパンク的な音に和とラップとニューウェーブとデジタル、インプロバイゼーション的なセッションを闇鍋のように入れ込みかき回した。

ZB Honnoji - YouTube
バンドはリズム隊がいて、そこにメロディが載る。
聴けば分かると思うがHonnoujiでのドラムスはリズム隊を成していないでメロディを叩いている。ベース、ギター、向井のヴォーカル。全てが寄ってたかってメロディを鳴らし時折それぞれがそこから離れ暴れまた戻る。
変則ドラム、というとリズムにも思えるが、リズムと言う意味で言うならこの全体のグルーヴがリズムで全体がメロディなんだろう。

こう、頭の中で、リフやら音に乗っかって、ぐわーっと渦を巻いてトランス状態になって盛り上がっていく感覚ってありますよね。LED ZEPはイギリスのバンドだから、渦巻きの基本をブルーズに置きました。ZAZEN BOYSは日本のバンドであるから、法被を着て踊り念仏に基本を置いたのだと思います。ライブを初めて見て聞いてから、改めてZAZEN BOYS Ⅰを聴き直した時、歌詞にある「踊り念仏」という言葉に気付いて、「これこれ!これだ!!」と思ったものです。念仏であるから、当然言葉は重要です。繰り返し使われるフレーズがあったとしても、その言葉自体に意味があるし、また「言葉を繰り返すことによって生まれるトランス状態」というのを意図しているのではないかなと思う。念仏をずーっと唱えていると、一種異様な感覚になりますけど、あれと同じです。それにバンドサウンドを加えるから「踊り念仏」になるのではないかと思う。だから、自らを「LED ZEPPELIN」と言いますが、枕詞として「法被を着た」という言葉が付いてるんじゃないかな?と勝手に思ってます。よく「同じ言葉ばっかり使う」とアンチに言われる向井さんの歌詞も、「踊り念仏」だと思うと納得出来る気がするんです・・・私が勝手に思ってるだけなんですが(笑)


ぶちまけ日記:ZAZEN BOYS:JAPAN8月号

向井が多用する「繰り返される諸行無常」「よみがえる性的衝動」という歌詞には人力でのサンプリングのような効果が見える気がする。
「くり、くり、繰り返される」とスクラッチも口頭でやってる。
向井はNYパンクの音からラップへとアプローチをした。
だから演奏はまず生演奏があり、トラックはすべて自力。
そして日本語であり日本というモノを意識して和のテイストをさまざま入れ込む。
バンドでのラップと言うとやはりこれを思い出す。

Beastie Boys - SABOTAGE (Live, awesome ...


大谷:そう。この話ってこのあいだ「ジャニ研!」でもやったんだけど、ジャニーズ・アイドルのラップって基本、喉を締めないで、母音を明朗に発音する時代が長かったわけ。ヒラ歌と変わらない喉でラップ部分もやるのね。それが嵐の櫻井くんくらいからマナーが変わってきて、こないだ辞めさせられた田中(聖)君だと完全に、いまの日本語ラップの主流の、締めて母音を濁らせた状態になってる。母音のサウンドがアメリカ英語の響きになってないと偽物扱いなのよ。もう、「日本語ロック論争」の時からなんにも変わってないんだけど、今回の俺みたいに普通に、普通に開けた喉の感じでやると、これはダサいって言われんのよ。自分だって発声に関してはすごい調整してやってんだけど、参考にしてんのが広沢虎造だったり、三波春夫だったり(笑)、あっちのサウンドの直接的な真似じゃないからね、意味不明なんだろうね。90年代にさ、それこそジブさん(ZEEBRA)とかブッダブランドとか、ランプアイとか、YOU THE ROCKとか、みんなでアメリカのサウンドに挑戦して、クリアしてきたって歴史がある。なんだけど、それ、もう基礎スキルだから。次があると思うんだよね。

jmnc:へ~でも、それ、能生は出来るか出来ないかで言ったら、出来るでしょ?

大谷:やってもしょうが無いって思てるからやらないだけなんですけどね。それだともっとかっこいい人いるし。だから、日本の皆さんがよく思う何が本物で何が本物じゃないか、という判断の際に、未だにそういった(喉がしまっていて、カッコつけている発音がいいんだ)テクニカルな問題が先に来ちゃうのか、と。出来るのは当然で、で、そっから先の選択が音楽的な勝負なんじゃないかなーと思うわけだけど、どーもね。発声、フレージング、シンコペーションその他を、詩の世界観とちゃんと結びつけるっていう作業の広さね。


[ blog ] 大谷能生氏と対談しました。 – Yu Ojima - Jimanica

日本のラップシーンがどうなのかはよく判らないけれど(専門でもないので、ただロック好きとしては)、ラップへの外からのアプローチは色々見ていて飽きない。
例えばロバートグラスパーとか、例えば菊地成孔x大谷能生のJAZZ DOMMUNISTERSとかのジャズからのアプローチとか(BlackSheepはラップからジャズへのアプローチなので真逆)。

この「日本語のダサさ」という漠然とした感覚。
ヤンキー的DQN的なのか、文化的乙女的なのか。
意味性の乖離した語感か、意味にまみれたアジテーションか。
ラップと言うある程度スタイルの固まったものの中で競い合うのか、もしくは漠然としたスタイルそのものを否定してリリックを詰め込むのか。


考察じゃなく覚書なのでこんなもので。
#FightclubJPは、あとでまったり聴きますわ。