象は忘れない

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photo by Colin the Scot
※残念ながら ちょっと雑かもしれない
私、「ネットの書き言葉」に取り憑かれておりまして - シロクマの更地
過去にも何度か書いているのだけれど「書きこんだ言葉は誰かに読まれるために存在している」
鍵でもかけていない限り、その言葉は誰かが読む。
「見られることなんて考えていないし」
「自己満足なので」

などと書いていても「見られることなんて考えていないし」「自己満足なので」と書くということは誰かにその文字を見られることを意識している。

ネットの文字はまず行為として「書きこむ」
そして「保存、公開」
最後に「読まれる」
これらはそれぞれ乖離している。


例えば誰かに対して悪意があり悪口を「書きこんだ」とする。
そこまでは「感情」であれ「作為」であれ誰かしらに対する悪意の発露が存在する。
そしてそれを「保存、公開」することで決定的になる。
はじめから書かない、あるいは「削除、非公開」という選択もあったにもかかわらずそれを選ばなかった。
保存し公開した時点でそれは「誰かに読ませる」という意図が発生する。
行為が自己内からの「言いたい」から他者への「読ませたい」に変化している。

誰かに現実で悪口を言う場合は、それを録音でもしていない限りは直接言うことになる。
誰かしらを目の前にして直接悪口を言うのは書きこむ行為と全く違う。
それは残らない。
対象の記憶には残るだろうが、それでもいずれ風化はする。
しかし書きこんだ悪口はサーバーが吹き飛びでもしない限り変わらず残り続ける。

そして残る記事はいつ誰に読まれるかわからない。
「保存、公開」という行為はそのまま「悪口を書きこむ」だけではなくそこに残し、誰にでも読めるようにする行為。


悪口を「言う」ことと「書きこむ」ことの大きな違いは「特定の誰かに対して言う」のかそれとも「不特定多数のひとに向けて公表する」の差にある。
そもそも悪口と言うか不平不満や気に入らないことなんて生きていれば山のようにある。
歩道を我が物顔で横一列で歩いてる連中にしろ、自転車で歩道を爆走するバカにしろ、すれ違いざまに舌打ちしてるJKにしろ。
ノマドガーと叫んでるバカにしろ、自身の生み出すものは無価値なのに価値を語るバカにしろ、極論と暴言で煽り儲けて来た輩にしろ。
その中から選りすぐられ厳選された「みんなに広めたい悪意」こそがネットの悪口。

マナーを守ったとしても、人を批判したい欲求はなくならない。
結局のところ、そう簡単には変わらないだろうと思う。


悪口を言うことを自粛しても批判したい気持ちは変わらない - 人生夢オチ

少し違うと思うのですよ。
「人を批判したい欲求」ではなく「人を批判していることを公開したい欲求」なんですよね。
人を批判する欲求だけならそれは自身で解決すればいい。
モニターの前で「こいつアホか」とつぶやいてりゃあ済む。
そうではなく「これは違うんだ」という批判を誰かに見せたい、という…えぇ、この一文がまさにブーメランなそれですよね。
先日、クマのお医者さんも「劣化したワイドショーのように」などとネットの言質を語っていたけれど、プラットフォームが変わって語り手の参入に関する閾値が変われば形態も変わるのは当然で、そこにコンテンツのクオリティの保証は当然ない。
だからこそカオスな状態になり、それはそれで面白くもあり、ひどくもある。

一連のブログ記事で私が問題にしたかったのは「書き言葉」の話であって、「書き手の気持ち」の話をしたかったわけではないのでした*1。逆です。いったんネット上に書き込まれた言葉が過剰に解釈されたり、よその言葉と連携して想定外の圧迫を産み出して、本人の意図や気持ちとは異なる振る舞いを呈し始める、そういった書き言葉の機能・書き言葉の一人歩き・書き言葉の誤配こそが気になるのでした。気楽な発言のひとつひとつも、ネットアーキテクチャ上で連結したり繋がったりしたら予期しないことが起こり得る――そういった関心が私のなかでは大きくなる一方です。
良い側面を見れば連携し新しい知見に繋がる。
これは「邪悪になるな(Don't be evil)」を掲げるグーグルの理想とした当初の「知と知が繋がることで産まれる新たな知」でありネットのレゾンデートルとして非常に本来的な結果ですよね。
ただ繋がるべきでないものが繋がったり、炎上したりさらし上げられたりすることでよくない結果も生み出す。
書かれた言葉はそこに残り、時間や空間を越えてどこかの誰かの目に触れる。
どんな小さな書き込みであろうとその可能性は否定できない。
それが当初の文脈から切り離されて新たな文脈に組み込まれ、あるいは単体で評価され料理される。
ネットで行われてるのはサンプリング文化の血脈ですから。


ネットにとっての最も理想的な姿と言うのは「誰にとっても有益な情報コンテンツの集合体(ニュース・データベース)」なのかも知れないが、それを提供するのが不特定多数であるが故にクオリティは保障されない。だから他人の褌で評価を勝ち取るキュレーターだの転載してるニュースサイトだのがフィルターとしてモテはやされる。
まとめサイトの存在にしろそう。
誰しも「ゴミの中からクオリティの高いものを自分で探すのは面倒」ということだし、できるだけ考えたくない。
判断したくない、保証が欲しい。


そして善意や悪意などの人間的な感情の発露の先としての「もう一つのコミュニティ空間」としてのネットも存在する。
それらは本来別の言質で占められる空間だが、娯楽や情報と同列で扱われ、燃えたり広まったりする。

どこぞのキノコに関する言及に関して言えば、彼の方の過去の行為はログとして存在するわけでそれを前提としたうえでの評価と、現在の実単体での評価は当然異なるし、そのブログや記事から放たれる悪意の矛先にいたかいなかったかでも違う。
誰かはどこかの文脈の何かの記事を拾い読み、誰かは読んでいない。
違う前提条件で同じモノを見ても同じ光景は見えないわけで、それらの差異を理解せずに「あれはイジメだ」なんだかんだと言うのはどーなのかなーと思ったり。
誰かを嫌いと言うなら、言われた方は好きになる理由もないわね。

尊師にしろ「彼をいじめるな」と言われるけれど、彼はかつて劣悪な環境で頑張ってる会社員に対して「社畜と家畜」と言ってのけ、しかも自身に向けられるその悪意を変換してマネタイズしている方ですから、果たして彼へ向けられる悪意を「いじめ」というカテゴライズするのが適切かどうか。
そういう「誰かの悪意を金に換える仕組み」が存在するからこそコンテンツのクオリティは保障されない、と言う些末ではあるけれどネットの一面を象徴もしてるわけですが。


ネットが本格的にマネタイズの場として機能し、そこに企業や政府などの物理世界の社会的な権力や既得権益が多く参入し本腰を入れはじめれば、書きこまれる悪意の是非を越えてネットもいろいろ制限され始めるんだろう。いまのところ無断転載や引用要件を満たす必要すらない(どこぞのニュース系ブログなんてどこかの記事を丸写ししてるだけ)し法整備も出来てない。

ただこれがこのまま続くかどうかはわからないし、悪意をネットに残せばそれはそこに残り続ける。
周囲の環境が変わっても関係ない。
An elephant never forgetsというが、象と同じくネットも忘れない。
悪意をそこに「残す」ことがどのように影響するか。
その手筋と展開を読み切れるほど誰しも賢くないんですよね、残念ながら。
「忘れられる権利」が保障される未来が来ればいいのだけれど。

そんだけ(雑)。

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