京極堂、妖怪というシステム

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)
京極夏彦の小説には、妖怪が多く出て参りますな。
妖怪、と聞いて皆さんは何を思い浮かべますかね。
え?


小豆洗い?
ネコ娘?カッパ?天狗?
まぁ、いろいろとありますな。
枕をひっくり返す枕返しなんて変な妖怪もいますし、垢舐めなんてね、生まれ変わっても垢舐めにはなりたくないなーなんて思ったもんです。
垢をなめる妖怪ですからね。人が生まれ変わって妖怪になるかどうかは定かでは無いんですけれども。

ところで、妖怪とは一体なんなんでしょうね。
えぇ、ここからがお話なんですけれどもね。
あれが実際にいると皆さん思いますか?
名前をつけられている、ということは存在する、ということもでもありますけどね、そういう意味ではございませんね。

たとえば人が死にます。
人が死ぬとお葬式、なんてことをいたしますな。
あるいはお墓を建てる、念仏を唱える。
そういう儀式を挟むことで死と日常を切り離すわけですな。
終わらせる、といってもいい。
突然人は死にます。
エンディングもエンドテロップもございません。
死んで屍体を転がして終わりです。
でもそれを放置しておくわけには参りません。
生きてれば勝手に動きますが死んでればいつまでもそこに転がってます。
だから屍体を焼く、埋める。
そうしないと腐ります。
屍体が転がってると不衛生だし邪魔ですな。
それに自分がそれになると思うといい気はしない。

お葬式を挙げることで死んだ人を終わらせる。
死んだ人は自分では何も出来ないから生きてる人間が終わらせるわけです。
埋める燃やす、は肉体を終わらせるわけですが、生きてた人間の魂とか、精神とかね、実在するかどうかではなく「生きていた」という生きている人間に残る記憶を終わらせなきゃなりません。だからお葬式を挙げてそれをエンドクレジットにするわけです。はい終わり、さようなら、バイバイ。

お話を戻しますね、で、妖怪です。
今は科学が発達しました。
情報の時代です。
だから何か事件があればそれは原因や理由が判る、事故や天災だって人工衛星の画像や科学的実証により色々と判る。

ところが昔は判らない。
突然、人がいなくなる。
いなくなったが理由が判らない。
可能性は幾らでもある。しかし科学も情報もない。
いなくなった、という「事件」は終わってません。
でもいなくなった人が見つからないまま「事件」を放置は出来ない。
そこで妖怪が登場します。
「天狗に攫われたのだ」
そういうエンドクレジットをつけることで「事件」を終わらせるわけです。
理解出来ないこと、不思議なこと、今なら幾らでも科学で説明がつくことも昔の人はそれを「妖怪」という解決手段に持っていったわけです。
妖怪とは科学がない時代の解決手段だったわけですな。
よく判らない、不思議だ。
仕方ない。
だって妖怪の仕業ですから。

京極夏彦の小説には、妖怪が多く出て参りますな。
とある事件がありそれは「妖怪」である、と。
そして京極堂はその「妖怪」を解体し再構築します。
事件の「妖怪」を成している要素を「解体」して現代の理解出来る形に「再構築」するわけです。
昔であれば解体も再構築も必要無い。妖怪は妖怪でしたから。
しかし今は理由、原因を求めてしまう。
妖怪なんていない、結果には原因と経過がある。
「妖怪がやったから」というエンドロールでは皆さん納得致しません。
それを求めるから「解体」「再構築」が必要になるわけですな。

面倒な世の中でございます。

民族学的な妖怪の理解というのは、まぁ、そのような、えぇ、理解で概ね宜しいかと。
小さいところでは誤謬や齟齬も出ますでしょうがね。概ねです、概ね。


「書楼弔堂 破暁」という新しい本があるのですが、何やら見ていると「幽霊とか妖怪とか一緒じゃねぇか」などと感想が書かれておりましてね。
えぇ、でもね、妖怪と幽霊は違うのですよ。
幽霊はあくまで「死んだ人」ですから。
妖怪ではございません。
妖怪は災害や事件も含みますが、妖怪は人です。どこまでも。
生きている人が生きているうちに残した想いの形、それが幽霊でございますから違うものでございますな。
ただ幽霊は生きている人が見るものですからね。
小説の登場人物が、読者が小説を読んだ時にその人の脳の中に再現される幻影であるような、幽霊もそういうものでございますね。
メタです、えぇ、メタ。

話がややこしくなって参りましたが、まぁそのようなことです。
書楼弔堂 破暁【合冊版】 (集英社文芸単行本)