生きてるだけでまるもうけ

分冊文庫版 鉄鼠の檻(一) (講談社文庫)
ブログで生き死にを語るのが流行ってるらしい。

大人のマナー

昔からよく
「政治と宗教の話をしないのは大人のマナー」
と言うけれど、それぞれ独自の信仰や思想があるからで、
政治理念は理想と現実がありどれも完ぺきではないし、
宗教に関しても神がいるのかいないのか聖地はどこかなどさまざま混乱する要因があり、昔から紛争や事件やサギや十字軍遠征の御旗にもなっている。

赤の他人とそういう話題を話しても解りあえないから
「政治と宗教の話をしないのは大人のマナー」
と他者との関係性の維持を意図する。


マナーなんてないさ、マナーなんてうっそさ。

しかし未成熟な人格は解りあえなくても構わないと考える。
言いたいことを言いたい。
社会性よりも自己の利益を優先する視点で判断を行う(それ以外を持ちにくい)。
それは利己主義の延長。

人が産まれたとする。

赤ん坊の時、まず自分を認識し母親を初めての他者として認識する。
父親、自分の家、近所の公園、幼稚園、友だち、先生、学校……。
成長していくことで自己から他者へと視点が広がり認識する空間が広がり、あるいはコミュニティでの関係性や集団などに複数の視点を持ち考える。
空間を認識し想像することで複数の視点を考える力が出来上がる。

想像力を持てば他者を類推し置き換え考える。
しかし未熟で未発達なままな人格では、それを考えられない。
成熟とは認識の拡大と想像力であり、だからこそ思いやりや配慮、と言ったことが人格(思考)が成熟すれば行えるようになる。

誰かが迷惑していても知ったことじゃない。
めいわくなら言えばいい、オレはやりたいようにやる、空気読めとかマナーとかお前はバカか死ね。
オレは悪くない。責任?
は?なにそれ?お前に言われたくない。
ばーかばーかかーば。

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未熟な人格には自己の利益しかない。
ひとつの事象には必ず複数の視点があり、だからこそさまざまに思惑は入り混じる。
が、それを想像できない。

ニヒリスト的コミュニケーション

しかし所詮はすべて想像にすぎない。
理解出来るのは自分の意志だけ。
相手の精神が歪んでようが真っすぐだろうが右だろうが左だろうが関係ない。
自分の意思すらインプリンティングされたセルフィッシュジーンのアルゴリズムから構築されているとは思わないし思えないのに、他者の思考の確認や正確なトレースなど遥か彼方。

だからひととひとは本質的には「はなしてもわからない」
解っている、と言う理解の妥協点の幻想を関係性の間に築いている。

Aという人物を認識すれば、自分の認識と意識中にAのアバターが出来あがる。
「Aを見て自分が作りだした虚像A'」が「自分が認識するA」
Aではないデータの欠けたアバターA'。

友だちになるのはAではなくA'であって、
恋人になるのはAではなくA'であって、
結婚するのはAではなくA'であって、
だからAと離婚する。

「そんなひとだと思わなかった」

いやいや前からこうでしたけどAは。
あんたがA'しか知らんかっただけで。
解りあえてるとでも思っとったか。

人間は、五感というセンサーでさまざまな事物を認識しているだけで、この自分という物理存在から出て直接他の存在を認識することも出来ないし自分の思考を越えて想像することも出来ないし、そんなことはイデの力にでも頼らなきゃ無理。
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宗教や政治もそうだが死生観に関して話すのも難しい。
それぞれに認識やこれまでの経験が違い、だからこそ「オレはこう思う」「あたしはこう」「自分にはこんな感じ」と様々な見解があるし、経験したそれぞれの背景を考えればデリケートな話になる。

内に自性を見て動ぜざるを名づけて禅と為す

禅宗の始まりはこう伝えられる。

世尊、昔霊山(霊鷲山、グリドラクータ)会上に在りて、花を拈(ひね)りて衆に示す。是の時衆皆な黙然として、惟だ迦葉尊者のみ破顔して微笑す。
世尊云「吾に、正しき法眼の蔵にして涅槃の妙心(正法眼蔵・涅槃妙心)、実相・無相・微妙の法門有り。文字を立てず教外に別伝し(不立文字・教外別伝)、摩訶迦葉に付嘱す」と。

『無門関』第一巻(世尊拈華)帯

釈迦が蓮の花を手折り見せて「ね?」と言われてみんな微妙な顔になった中、弟子の迦葉尊者だけが「にやり」と笑い(オレわかったっす)、禅宗はかくてシュールレアリズムの果ての解ったっぽいドヤ顔で不立文字として真理を語り、真理であれ仏性であれ、それは語るべきではなく考えても答えが無くそれでも理解したっぽいことにしておくものであり、そして答えなど無いままに己の命の責任は結局己のものとして終わりをいつか迎える。
だからこそ過去から多くの人間が生や死について語り続けそれでも倦むこと無く語られ続け、それでもそこに賢明な答えなど無いというのに、もし人の生き死にだの概念だのそれを誰かに語れるほどに賢明な思考を持つなら何も語らず黙ってニヤリと笑うのが一番いいと解る。

La Danse Macabre


Ant Death Circles Explained - YouTube
軍隊アリは視覚が退化しておりフェロモンを辿って移動する。
ところがフェロモンが円形になればそのまま何も解らずグルグルと死ぬまで回り続ける。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。

人間とアリは違う。
とはいえ根本的にアリと人間は大脳の容量に差があり、DNAが仕組んだアルゴリズムが違う。
人間のアルゴリズムは複雑でアリはシンプル。
だからエラー訂正もなく回り続ける。

しかしアルゴリズムに変わりはない。
産めよ増やせよ地に満ちよ」
そのために繁殖し、飯を食いクソをたれ、寝る。
人間は、そのプログラムを忠実に今日も守る。

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人生の意味だけが今宵もオロロと降りかかる*1

人生や死や生きる意味。
それらに勝手に色々な意味を持たせたいなら持たりゃいい。
それを行う意志と言うモノが存在しているのだし。
自分の人生は自分のモノで、その生も死も勝手に自分でもてあそべばいい。

だが本質的にそれがあるか否か考えるのであれば、一面的にではなく政治と社会的生物的、宗教、倫理、時代、地域によるパラダイム、感情、関係性、さまざまなものを配慮し、そして多いに語ればいい。勝手に。
だが、どれも本質ではないし正解でもないし、それはすべて「ぼくがかんがえたさいきょうの」児戯のへりくつ。



さんまの名言「生きてるだけでまるもうけ」

生きている間に、生きていることの素晴らしさを語れ。
どんなにちんけでも生きてるなら生きてることを語っとけ。
誰もが無限に生き続けてるわけでもない。

意味とか理由とか理屈とかめんどくさい。

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ブログなんて読まれてなんぼ。
PVがあるだけありがたい。
たかがブログ始めて半年程度で偉そうに「ブログがPV稼いで何が悪い!炎上上等だろうが」と語ってるバカブログもありますが、あそこまで薄汚くもありません。
ほんのり黒い程度です。

ホッテントリなんてめっそうもない。
波乱万丈荒れ狂う人生も過ごしてませんし、
そんなに面白い記事も書けませんし、
何かを語るほど頭も良くありません。
燃えもしません、読まれもしません。
中身もあまりありません。

それでも毎日バカをさらしております。
しょーもない記事でのお目汚しでございました。

なのでしんきくさい話はいたしません。

ありがたやありがたや。

金がなければくよくよします 
女にふられりゃ泣きまする

腹が減ったらおまんま食べて 
命尽きればあの世行き


有難や節 - 守屋浩 - YouTube

*1:viaソウルコックリさん/筋肉少女帯