何かを切り捨てて「生きる」と言うこと 小川一水「フリーランチの時代」

フリーランチの時代
ノーフリーランチ定理ってものがある。

この定理の名称は、ハインラインSF小説月は無慈悲な夜の女王』(1966年)で有名になった格言のThere ain't no such thing as a free lunch.に由来する。
数学的にありうべき全ての問題の集合について、どの探索アルゴリズムも同じ平均性能を示すことを説明したものである。これは、探索アルゴリズムに必ず何らかの偏向があるため、そのアルゴリズムが前提としている事が問題に当てはまらないことがあるからである。

ノーフリーランチ定理 - Wikipedia

頭文字をとってTANSTAAFL「無料で食える飯なんてものはない。」
この小川一水「フリーランチの時代」では、TANSTAAFLではないタダめしの世界が短編で描かれる。

表題作「フリーランチの時代」ではあっさりとファーストコンタクトが行われ、人類が幼年期の終わりを告げる。今までの人としての意識でありながら、意識以外の実存全てが別の物質に置き換わり「めしを食わなくても生きられる」

「Live me Me」では事故にあい脳だけが生きた状態で新たに機械の身体を得る女性が描かれる。こちらも「めしを食わなくても生きられる」

「Slowwife in Starship」には引きこもったまま生きられもはや働く必要もない未来が描かれる。「働かなくてもタダめしで生きられる」

そして「千歳の坂も」では不老不死が技術的に手に入る時代での死ぬ権利を描く。「めしを食わなくても生き続けられる」


しかしその代償としてこれまでの人としての生を手放し、人の体を失う。
労働する必要もなく生きられる未来で、だからこそあえて労働を行い、不老不死が手に入る世界で死ぬことを望む。

人間はどこまでもないものねだりで、死ぬとなれば生きたいし、無限に生きるとなれば死にたくなるらしい。

生きるとは美味くても不味くても飯を食ったり、眠ったり、病気になったり、それでも日々を過ごすことで、しかし技術は進み便利になり、衛生的になって病気が減ったり、美味いめしが手軽に食えるようになったりする。
でも便利さで切り離してきた様々に不便な事があったように、今ある不便さを切り離したとき、もしかするとその不便さやめんどくささに価値を感じたりするのかもしれない。

ドラマ「リバースエッジ大川端探偵社」でこんな話があった。

ヤクザの組長が、既に閉店したワンタンスープが食いたいと言う。
組員はさまざまな料理人を呼び再現させるがどれもダメ。どれだけ高級でも否定される。
そこで探偵に、閉店した店の料理人を探すよう依頼が来る。

探偵は店の親父を見つけ、スープを作らせる。
安物の材料に化学調味料を山盛り入れたワンタンスープ。
それが組長の食いたかった味。

近代化が進み、材料は安全で高品質になり、ヘルシーだとかオーガニックだとか言われる。
しかし理由でも理屈でもなく、それがただの感傷でも、それに価値があると感じることはある。
身体に悪くてもその味が好きならそれを食いたくなるのが人間。
論理だけで出来てるわけじゃあない。
「フリーランチの時代」
もし、その時を迎えたとき、切り捨てた何かに価値を感じるのだろうか。

美しい蝶は、芋虫だった自分を『醜い』と思うのか。
芋虫は、美しい蝶を見て『羨ましい』と感じるのか

LILY C.A.T

最後に「時砂の王」のスピンオフ短編も入ってます。
さすが小川一水
読ませる短編集。
時砂の王