一年以上ブログ書いていますけど何も得られませんし、書き続ける意味も見出せませんし、人生の意味もわかりません

好奇心の赴くままに ドーキンス自伝I: 私が科学者になるまで
※以下、あくまで個人的見解による
半年間ブログ書いていますけれど何も得られていませんし、書き続ける意味も見出せません - K Diary

やっぱり、ブログやるよりも、リアルでバンドやったり、絵を描いたり、小説書いたり、漫画描いたり、はたまたフットサルやったりしたほうが得るものは大きいと思う。まあ、個人的に思うってだけだし、ブログをただただ書いて「俺は色んなものを得ることが出来た!!」と言う人も中にはいるだろうけれど。また、ブログ書いて他の人と色んなつながりができて、リアルでも色んな事を得ることが出来た、と言う人もいるでしょう。ただ、俺はブログでの繋がりをリアルに持ちこむことはしないスタンス。そうなると、何も得ることは無い。意見を表明して、それに対する批判/同意/反証を貰うことはそれはそれで有意義かもしれないけれど、それが面白いかっつーと、極めて微妙なワケで。
(中略)
逆にブログを書いているだけの人はどうなんでしょうか?何かを得ることができてはいるのだろうか?書き続けることに意味を見出しているのだろうか?ブログを書くこと自体が面白くて、さらにリアクションが貰えたりすることが楽しくて仕方がない人も中にはいるだろうし、何かしらの意見にTwitterでは足りないような文章量でリアクションしたい、という人もいるのかもしれませんが。

アンサー。

よく「今年の目標は毎日更新です!」だのなんだのそういうマジメな人を見かける。
昔で言えば「キリ番」だとか、あぁ言う文化を見るに人間ってのは意味のないことにも意味を見つける名人なわけです。
鰯の頭も信心から、なんていうけれど、実際的に何かに価値を感じればそこに価値など無くてもそれは価値たりえるのであって、解りやすくいえば舞城の未発表短編が出てくればウチなんかはかなり読みたいと思うけれど、スーパーのレジのおばちゃんには「え?これ何?誰?」という価値しかないように、「やる気・元気・イワキ」なんていうアホらしいいわきノブ子のフレーズですらも支援者からすれば価値を感じるのかもしれない。

ダンカンを引きつけておいてボッシュが突っ込み、ディアウがダブルチームに入ったタイミングでウェイドにパス、なんてところ(5:26辺り)はNBA好きならたまらないわけだけど、興味のない人にはどうでもいいし、そんなプレーを生涯観なくても困らないし価値はない。
人間が遺伝子の乗り物としてのレゾンデートルしか持たず、そのインプリンティングされた至上命題は「産めよ増やせよ地に満ちよ」でしかなく、実質的に(錯誤でならどうとでも持てるとしても)人生に意味がないようにブログにも同じく意味はない。

価値やその意義はひとが勝手に決める。
AKB総選挙で一位だからってだからなんなの?と言われりゃあその通り。
でも当人らとファン、そういうコミュニティは価値が発生するパラダイム下にある。


不法投棄:応募券欲しさにポテチ1000袋…容疑の男逮捕 - 毎日新聞
これなんてすごくわかりやすい。
この投棄したヤツにとってはポテチよりも応募券に価値があって、ポテチはゴミと同じ価値しかない。
しかし一般的な観念や食糧難の地域であればポテチに価値がある。
応募券に対して対価を払ったのであって、ポテチと言う食料はただのオマケでしかない。
そういう錯誤をこいつは感じ、それは社会的なパラダイムとはズレてる。
実質無意味な事象に、自分だけの意味を感じてる。ファンコミュニティではそういう錯誤も一般的かもしれないが(ファンとはそういうもの)。


この世界の、大概の事は、何も得られない。
ひとが生きる上で必要なのは、肉体が死なないよう栄養を摂取し、病気を避けるため清潔にし睡眠をとり、排泄を行い、交尾をして種を残す。
ひとはタダの遺伝子の入れ物。

それ以外のあらゆる行動で得られる何かはすべて「錯誤」「自己満足」「思い込み」でしかない。
しかし人間が産まれてしまい、残念な自我をもってしまった以上、生物としてだけではなく「社会を生きる個人としての幸福で有益な人生」を歩むしかなく、だからこそ自分が価値があると錯誤できる何かしらが必要なだけで、実際的には一律に価値は無い。


ブログを書くのは、そこに社会的に生存するための対価を求める「プロブロガー」でないのなら、多分「書きたいから」という衝動と欲求しかなく、ひとによっては「承認欲求」だろうし、ひとによっては「タダのヒマつぶし」「趣味」かもしれない。あるいはひとに評価されて嬉しいか。
どちらにしろ人間は社会的な生き物なのだからそこにどれだけアンビバレンツだろうと歪んでいようと繋がりがあるのならそこに何かを求めてしまうのかもしれない。
産めよ増やせよ地に満ちよ」だけのために生きるには、自我が邪魔だし、人生は長い。
だから鰯の頭でもレブロンのダンクでも何かしら価値や意義を感じられる何かが欲しくなる。
コギトエルゴスム、実にめんどくさし。

子どものブロック遊びは、幾ら積み上げても無意味だけれど、立派な城が完成したらそれだけで嬉しくなる。
もし嬉しくなれたのなら、ブロック遊びという行為自体は無意味でも、その感覚には自分にとっては意味が生じるかもしれない。


平たく言えば
「ブログに価値なんかないし、無駄だけどなんとなくやってる」
そんなところ。

価値を感じるならやればいいし、無駄だと思えばやらなきゃいい。
そんなもんすかねー(byニヒリスト)。

もっと優等生な答えも出てくるでしょうがねぇ…。
めんどくさい「自分にとっての理由」を錯誤している方もいらっしゃいますし。

こちらからは以上です。