言語と非言語について(中上級者向け)

※そこそこ こじらせてる(中上級)方 向けの記事
※あ、ただの普通の素人です
荒天の武学 (集英社新書)
思考と言語 - ネットの海の渚にて
丁度、今「荒天の武学」を読んでいて非言語についての話が面白かったのですが、記事にしても閑散とするでしょうからやめとくか~と思ってたタイミングで上記記事を読みましたので受けて書いてみます。

言語と思考について。

ストリーム&ログ

感情は喜怒哀楽に表わされるように文章化できる。

当たり前だが我々は今沸き起こっている感情の揺らぎを一番近いと思われる言葉に置き換えることで再度自ら確認している。

たとえば「寒い」
寒いとき「寒い」というコトバで表現しますが「寒い」というコトバはあくまでもその状況・感覚を示す表現でしかない。
どれだけ寒いか、どんな風に寒いか。
そういうデータが欠落している。

科学であれば、再現性がなければいけませんから数値化して「摂氏」などの数値で表す。
数値なので他の人間にも比較的誤差なく伝わり、同様の温度を再現できる。

あるいはオノマトペで表現する。
オノマトペは「ガタガタ震えるくらい」「キンキンに冷えてる」など、その音として「感覚」を表現しようとするのでコトバとしては、より感覚的に用いられる言葉。
状況に一般通念的な「感覚の概念」が付与される。
ただし言語コミュニティが違えばオノマトペは通じない。


「寒い」と感じた自分の感覚や感情はあくまでも自分の中の唯一無二のそのとき「今」だけのモノであって、それを正確に伝えることはできない。同じ温度でもどう感じるかは人によって違うわけで。

人間は感覚器を通じ周囲の状況を電気信号に変換し、それを「感覚」として捉え「意識」するわけですが、その「今」感じた「感覚」は「今」と思った時にはもう「今」ではなく過去になってる。
そして「今」感じた感覚は過去になったときにはそういう感覚だったというログ(記憶)に置き換わる。
人間の脳の容量は無限ではないのでストリームで受け取り感覚器から得た情報を選別し取捨選択する。このログ(記憶)にする際、ストリームの情報の中で残すべきものだけを「言語」や「画像」などデータ量の少ないものに圧縮・変換して保存(記憶)する。
でなければデータが溢れる。
ですから過去の記憶は「言語」と「映像」に置き換わる。

今の日本人には言葉は使いやすいのでそれに置き換わりますが、そうでなければそれなりの何かに置き換わるだけ。
言葉はあくまでコミュニケーションツールなわけで、もしディスコミュニケーションあるいはコミュニケーションが必要ない環境下で育てば己の中の「ぼくがかんがえた」ぼくだけの専用コトバが出来上がるのかもしれない。

要するに文字以前の世界に戻ることが人間には耐えられない。言語は私たちを忙しくさせてくれるし、寂しさなども紛らわせてくれる。

荒天の武学

そして言語化された感覚はあくまでもログでしかなく「昨日寒かったなー」と思い、ログにアクセスしたとき、「寒い」という該当する言葉に行きあたってもそのときに感じた感覚そのものをまったく同等に再現することはできない。
あくまで記憶はログ。

私の記憶はことごとく既に文章化されている。

私の記憶は静止画とその時の感情が言語化されて脳に格納されているらしい。

近い記憶は動画で記憶しているものも多いが、古い記憶はそのほとんどが静止画で、それを補完する形で感情や感覚が文章化され付随している。

つまり感情が言語化されているのである。

蛇を見て感じた思いが「怖かった」と文章化され静止画に注意書きのように添付されている。

ちなみに飛浩隆「ラギッド・ガール」にはあらゆる感覚器のストリームを記録する人物が登場します。

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無文字文化

古代インカやハワイは昔、無文字文化でした。
音韻はあっても文字が無い。
記録されることはなくすべて口伝で伝えられた。
昔の日本人にしろ、識字率は低かったわけで、今や文字を読み書きできるのは当たり前になってしまっているけれど。

無文字文化とは民俗学の世界でよく言われるが、その本質がよくわからなかった。今、ケルトと縄文というテーマでさまざまな事を調べている中でこの無文字文化に該当する考え方があった。

ケルトも日本(縄文)も同様に文字を持たない文化であり、かなり高度な文明を育んでいる。そして共通項がたくさんあり、共に豊かな森林の文化であり、その中で長くアニミズムを基にした自然崇拝をもっている。共に中央(いわゆる文明地域)から見れば辺境に位置しており、長く中央の影響を受けずに独自の文化を育てていった。
そして共に文字を入れた後も言霊信仰が残った。文字や言葉を発する事でそれが現実になる。悪い言葉ならそれに縛られて悪い事が現実になる。、だから言葉を選び、簡単には言葉や文字として固定しない。
(中略)
口承の物語、音楽、絵画、造形物、それら全て、伝える目的は対象世界の捉え方であり、固定的ではなく総合的な認識力を持って受け入れる種類の認識群である。いわば言葉では表現できない内容なのだ。
しかし、それが最も大事であり、何らかの方法で必ず伝えていかなくてはいけない事だった。
物語や音楽や芸術を通じて何を受け取るか、受け取る側が想像力を働かせて入れていく能動性があって初めて成立するのが古来の伝承文化なのだろう。それが現代の一方的な”伝達”とは異なる、相互交信のある”伝承”の中身だと思う。文字を持ってしまうことでそれらの能力が錆び付いていく。無文字文化の集団はそういう危機感をもっていたのではないか。

文字を持たない社会が示す”伝承”の本質とは - るいネット

ハワイの踊りがさまざまな情景を豊かに表すのはそれを表現する文字を持たなかったからかもしれない。
文字がないからこそ何かを伝えるための他の手管が発達する。

アリにはコトバがない。
だからフェロモンを出し、それを言語の代わりに使う。
人間の場合、声帯を用い音韻にて発音することを体系化し、記載した象形に意味や音韻を付与しそれによってさまざまな事象の意味や存在を伝達するツールとして発達させた。
これがコトバですよね。
人間はフェロモンを意識して出さない代わりに、言葉と文字でのコミュニケーションを選択した。
もし嗅覚が発達していればフェロモンや臭いが体系化されてコミュニケーションになったかもしれません。

Jehovah


かつて、ひとは誰もが同じコトバで通じあえていたから天に届くような塔を建て始めた。
そこで神は人々の言葉をバラバラにしてお互いに争うように仕向けた。

コトバ、つまりコミュニケーションが通じれば争うこともなく「解りあえる」のに、コトバでしかコミュニケーションが取れない人間はだから永遠に争わざるを得ない。


非言語の代表が芸術ですかね。
言葉や文字にならない抽象的な何かを、絵やさまざまなオブジェクトにて表現する。
しかし非言語であり、だからこそ画一化されていないし伝わり方は千差万別。
でもそれはそれでいい。
もともと「正しく伝える」ために芸術は存在してない。

現代アートを見たときに「理解できない」と思ってしまうのは、それはつまり「言語化できない」「既存の価値観に置き換えられない」からであって、その作品を見てそのまま、言語化できないさまざまな情報を受け取ればそれはそれでいいわけです。
今の社会と言うのは言語化できない、非言語に対しての捉え方と言うのが上手くなく「なんだかよくわからないもの」が「なんだかよくわからないもの」のままではなく「白なのか黒なのか紫なのか」それが求められてしまう。
ネットの発達によってコミュニケーションの比重が言語に偏っているということでもあるでしょうが。


識字率が低かったころの日本人は、だからって知的レベルが低い、ということではない。
今や義務教育によって識字率も向上したわけだけれど、コトバで考えることに慣れてしまい非言語を扱うことがヘタになった。
感覚的で抽象的なものをその抽象的なまま捉えられない。
森博嗣氏も自著の中で「漠然としたものを漠然と捉えられないひとが多い」云々と書いてましたっけね。

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妖怪、幽霊、アミニズム、さまざまありますが、そういう闇だったものが光の下にさらされる。抽象的で感覚的な世界がどんどん具体化され言葉の呪いをかけられる。


なにかは名付けられたときにそのモノになる。
名前は呪いだし、名づけることで縛られるわけですよね。
言葉でしか思考できない、というのは呪いですねぇ。
オンアビラウンケンソワカ

フランス語では「考える」というのを「se dire(自分に向かって語る)」と言いますけれど、その通りで、思考するというのは、もう聞こえていない言語音を聞いて、まだ聞こえていない言語音を先取りしているからできることです。an ideaというふうに「思考」に冠詞がつくと、まるで思考というのはパンとか鉛筆のように一個二個と数えられるモノのように思えるけれど、実際には流れであって、時間の中に後も先もなく無限に広がっている現象なわけですよね。

光岡 私の中で思うことと考えることはすごく明白に分かれていて、考えているときには文字がなく、感覚が形を得ようとしています。けれども思っているときは、風景や状況に属する言葉から文字が浮上してきます。感覚の方から自然と何かが言語化されていく。

荒天の武学