押井 守作品に関するつれづれ

百億の昼と千億の夜 (ハヤカワ文庫JA)
ビューティフルドリーマーは今の子が観ても面白い? - Togetterまとめ
面白いな。
とりま「うる星」のコンテクストと断絶している世代がビューティフルドリーマーを見ても「あぁ、あれね」程度に考えるのは確かにその通りなのかもしれない。
もはや「古典」になってしまい、後に多くの模倣や習作を生み、元々持っていた作品としての強度をどんどんと失っていく。
サンプリングされればされるほど既視感はつもる。

あの時代の、文化祭の、学生生活と言うものと現代のそれは大きく異なる。
同時代性を必要とする作品は、だからこそ劣化する。
作品の中にもしポケベルが出てくれば、それだけで時代を感じてしまう。そんなもの。

その時代のモノをそれとして楽しむ人もいるだろうから「必ず」とは言えないだろうけど。
というか「若い人」じゃないし推測にしかならない。

革命の幻想


押井守という人物は学生運動に憧れ、しかし学生運動に参加する前にあさま山荘を迎え、運動には間に合わなかった。
そういう「いつかあの革命に参加するんだ、ゲバ棒を振りまわし拡声器で叫ぶんだ」という想いが昇華できないままアニメ界で頭角を現し、その思いはうる星でメガネ(千葉繁)に憑依し長広舌なモノローグのアジテーションとして昇華することになる。

高校生活動家であった彼が「七〇年決戦」や「東京戦争」と呼ばれていた戦いを夢見ながら遂にその目的を信じることができなかったことも、彼が学生運動の傍らSFに、それもバラードのような破滅型と呼ばれていたSFに、いやもっと端的に「百億の昼と千億の夜」という物語に耽溺していた不可解さも、彼にとっての戦いの目的があらかじめ喪われていたからではなかったのか――そう考えれば得心がいくように思えるのです。
 喪失という感覚こそが、実はもっとも激しい情熱を人にもたらすのではないか。

http://ch.nicovideo.jp/oshimag/blomaga/ar230097


面白いのは、押井が描くのは、憧れた革命ではなく、一貫してそれに対する体制側であって、押井作品での革命とイデオロギーを叫ぶ側は、決してその目的を果たせずに体制に鎮静化されるのは皮肉なもので、それはやはり学生運動の隆盛と終焉をまざまざと見てきたからなのかもしれない。

理想と現実とニヒリズム
理想の革命と現実的で打算的な政府・公僕とその中で辟易しつつも正義を追う主人公。

たとえば劇場版パトレイバー2の前身となったOVA「二課の一番長い日」の中で、甲斐は自衛隊を武装蜂起させ国会議事堂などを占拠。フェリーに米軍から強奪した核ミサイルを乗せ政府に対して政府の解体を要求する。

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しかし二課の活躍(後藤の)により甲斐の武装蜂起は失敗する。
甲斐が、革命を夢見た頃の押井の写し身だとすれば、後藤は現世に存在する今の押井の写し身かもしれない。

帆場英一、柘植行人

劇場版パトレイバー1で、押井は帆場による虚構の犯罪計画とそれを防ぐ特車二課を描く。
伊藤和典らの手によってエンタメに昇華したものの、こちらでも虚構の犯罪(革命)が描かれ、またもや公の手により阻止される。

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パトレイバー2で柘植行人は、東京に対して虚構の「戦争状況」を仕掛ける。
結局のところ現代の東京において武装蜂起を行い戦争に推移させるだけの説得力はもはや無く、個人としてのテロ、犯罪として事件は処理される。
「二課の一番長い日」で甲斐が口にした「生きてりゃあもう一回くらいやれるさ」というもう一回がこの作品かもしれない。

GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」での虚構は、その生きる世界そのものとして存在する。
義体と呼ばれる機械の身体と、そこに転写された電気信号としての「私」
私が電気信号でしかないのだとすればこの現実と虚構の境目はとても曖昧なもの。
私とは何でどこに存在するのか。
センサーを通してしか現実を認識することができない永遠の肉体の牢獄の中で生きる。

記憶が改ざんされるゴミ処理人が出てくるけれど、デジタルによって人間の意識すら電気信号として取り出せるのであれば記憶も改竄はできる。だとすればその現実を生きているという確固たる証は果たしてどこにあるのか。

伊藤ちひろと『スカイ・クロラ』で組んだときには、結構そういう意味では葛藤があったんだよ。『イノセンス』をやったのは、あれは構造ってゼロだから。あれはキャラクターの話をつなげただけ。あれはディテールの持っている情報量で勝負しようと思っただけで。あれはだから本みたいな映画なんだよ。
――ある意味写真集に近いですね。
押井:どこから見たっていいんだよ。同じことが反復してるだけなんだから。なぜそうするのかって言えば、俺自身が飽きちゃったからだよ(笑)。

http://ch.nicovideo.jp/oshimag/blomaga/ar437795

ダンジョン再び

森博嗣原作の「スカイクロラ」では歳をとらずに戦争を行い続けるキルドレが描かれる。
押井守と言えば「虚構」だが、そのベースにはもう一つ根深くRPGウィーザードリィ」が存在する。

「端的に言えばRPGの歴史って言うのはぬるくなっていく歴史だった。僕はオーバーキルなゲームが好き。初期の『ウィザードリー』とかはロストはロストで本当に死ぬ。それをかわす方法は唯一リセットだけ。そうすることで、リセットという行為がひとつのドラマとして成立する。それを題材にして作ったのが『アヴァロン』という映画。ゲームというのは映画と違って、苦労することでキャラに対する感情移入も成立する。このゲームも最近のゲームには珍しく、キャラクターの“死”というものをかなりシビアに設定している。頭部を撃たれたら一発で相当なダメージを喰らうとか、怪我をした仲間を助けるために別の仲間が運ばなければならないとか。そういう意味で今どき硬派なゲームで好感が持てる。ただ、僕だったらやっぱり、一発撃たれたら即死っていう超タイトなゲームにする(笑)。そんなもの誰もやりたくないとは思うけど、可能性として売れなくてもやっちゃうことに未来への投機がある、というのが僕のテーマだから」

http://valkyria.jp/pia02.html

ウィーザードリィそのままやって見せたのは実写映画「アヴァロン」だったが、スカイクロラで描かれる「戦争を行い続ける」主人公らにとっての戦争とはゲーム。永遠に繰り返し反復する日常、そしてその隣合わせの現実的な死。
感覚的には、岡崎京子が言った(ギブスンが)ところの「平坦な戦場でぼくらが生き延びること」という平坦な戦場と言う日常に近しいものを感じる。

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かつて「注文の多い傭兵たち―オシイマとその一党のコンピュータゲームをめぐる冒険」と言う本があり、その中でもウィーザドリーについて多く書かれている。

古典と基礎知識とネットと

ネットが発達し、共有知としてのデータベースたりえるネットがいびつに発展し、知識型のオタクは岡田斗司夫が「オタクは死んだ」と述べたようにじり貧であり、誰しもが膨大なアカシックレコードにアクセスできる今、コンテキストが断絶し「ビューティフルドリーマー」を観ても、観るためにうる星の本編を観てもそれはもはや古典でしかないのだけれども、今や共有し照会する「基礎知識」と呼ばれていたプラットフォームが崩壊しているために古典にすらなれないまま、単に「昔人気があった作品」としての価値しか得られていないのかもしれない。

ゲームだってそうかもしれない。
ウィーザードリィは確かに面白かったけれど、マーフィーズゴーストにしろ今や文脈は途切れているし「なぜマーフィーズゴーストなのか?」なんてただのウンチクでしかない。
5インチフロッピーの8801や9801のモニターで遊んだウィーザードリィを今の子がやっても面白いか?と言われれば、現代のゲームとではそもそもの情報量が異なるし、RPGも手を変え品を変えさまざまに工夫を凝らし発展した今にかつてのウィーザードリィでは強度が足りない。

押井守版ルパン

有名な話だが、パヤオの「カリ城」に続く企画としてルパン三世の新作の監督に押井が指名された、と言うのがあった。
そのとき押井は

「そうだよ。宮さんの紹介だった。『あんたルパンやんない?』って(東京)ムービーのプロデューサーから。
宮さんから、あんたがやってとどめ刺してよ』って話だったの。興味あったし、見事にルパンを終わらしてみせようと思ったわけ。
あれもね『うる星』と同じで、当時から終わんない予感がしてたからね。実際今でも終わってないけれど。
だから気持ちがよくわかったの。これ以上見るに耐えないっていうか、死人を踊らせるに等しいのは見るに耐えないってのは」

幻の「押井守版・ルパン三世」(押井ルパン資料1)

キャラクターや物語はどんどん劣化する。
ひとつの物語を描きそこでピークを迎え、さらに次を、次を、とやればインフレどころか陳腐化する。
名探偵コナンなんてもう何をいm(自粛

PATLABOR THE MOVIEの時点で押井はキャラの陳腐化を言い、だからP2での主役は南雲であり、写し身の後藤になる(P1は、帆場と後藤、そして松井刑事)。
だから現行の実写版が、世界のみを共有するその後の三代目などと言うのは当然だとも言える。

ビューティフルドリーマー」が、うる星やつらと言うキャラクター映画であるのに対して、パトレイバー攻殻機動隊では、物語構造こそをメインとしてキャラクターを脇に添え(それはパトレイバー2で顕著だと思われる)た。
キャラクターは、終わらせない限りは終わらない。
フィクションは終わらせようという意図がなければ、陳腐化し忘れられる。
押井守という才能の生み出した作品群の中でも「ビューティフルドリーマー」は確かに当時としては秀逸な作品で、振り返ってもそれなりの強度が見られはするけれども、しかし今の作品と比較すれば落ちる部分も多いだろう。

Ghost in the Shell - trailer - YouTube

とはいえ、では現行のアニメ作品の中で、遥か未来から振り返ったとき、それに耐える作品が幾つあるのか。
数十年後に振り返って「アレは古典だ」「名作だ」と呼ばれるものはとても少ないのだろう。
攻殻」辺りは残り、「ビューティフルドリーマー」は残れないかもしれない。


特にまとめるつもりも無いのでこの辺で

あのころは、だいたい部屋でSFとかの本を読んでいた。それと妄想だね。ずーっと布団をかぶって妄想をしているのが、一番好きだった。
「ある日、目が覚めたら、世界中に自分一人、どうやって生きていく?」そんなことを考えていたら、あっというまに夕方になったし、楽しくてしょうがなかった。
その後、学生運動が始まって、世の中がおもしろくなったので布団から出てきた。そのなかで、いろんな人間と出会ったし、友だちもできたし、女の子とも出会った。学校に通っても得られなかったものを全部サポートしてくれた。だから、妄想も含めて、あの時期に得たものが人生の原資になっている。だって、いま映画にしていることは、あのころに妄想したことだから。

http://ch.nicovideo.jp/oshimag/blomaga/ar276226