ブログは「情報」+「思考(感情)」を元に書かれる

※歩きながら考えた散文
※当たり前のことしか書いてません

ブログ(Blog)と一般に呼ばれるものは「情報」+「思考(感情)」を元に書かれている。

・「情報」は、普遍的な事実、あるいは広く知られた常識(絶対的でないパラダイム、コモンセンス)などに基づく事件、事象を指す。
もちろんその「情報」の正しさが保障されているとは限らず、何かしらのバイアスにより汚染されている可能性は充分にありえる。
「情報」を最もミニマルにしたものがデータベースになる。

・「思考(感情)」は、書き手個人の経験則や記憶、あるいは思考に基づく記述を指す。
厳密には論理的思考と感情論は切り離すべきであるが、概ね論理的とされる思考も個人の性質や嗜好によりバイアスがかかっているために純粋論理とは言いきれず、ここでは「思考(感情)」と両者を混在させた概念を使用する。

・「情報」は、単なる事実だけではなく、それを記事にした際に必ず情報の取捨選択が伴う。
たとえば先日、誘拐事件があったが、その際に「部屋にはアニメのポスターが貼られており」という部分が強調され、頻出ワードとして機能した。
これは報道の主が数ある情報の中から「部屋にはアニメのポスターが貼られていた」部分を強調することに何かしらの恣意が存在し、受け取り手に対しバイアスをかける意図が見える。
このように単なる情報も誰かを介することで取捨選択(フィルター、キュレート)が行われ、個人のバイアスがかかった状態で情報が出現するために厳密な意味での純粋な「情報」はほぼありえない。
「○○の名曲50」というまとめ記事であれ、曲自体は情報だが、無数の曲の中からそれらの曲を選択した書き手個人の「名曲」という書き手個人の嗜好のフィルターを経由しており(普遍的な名曲と言うものを示す場合も個の集合である多数決でしかありえず、曲を数値化しそれが優れているかどうかを明文化する尺度は無いので)、情報は自然偏ったものになる。

・「思考(感情)」は、「○○は○○である」と言ったような個人による思考の過程や結果を指す。
この記事もそれと言える。
思考・思索はいわば解釈であるともいえる。

・世にある「マンガでわかる○○」などのように、思考・思索での気づきと言うものはすべて世に既に存在する何かしらを改めて解釈し直し提示したに過ぎない。
1+1=2
1のものと1のものを合わせれば2という集合になる、と言うことだが、これはそういう物理的な事象を数式として解釈したわけで、厳密に言えば1のものと1のものを合わせてもそれは「1のものと1のもの」に過ぎず「2」と言う集合は人間が解釈した概念に過ぎない。
数が増えれば増えるほど扱いが難しくなるために「1のものと1のものと1のものと1のものと1のものと1のものと1のものと1のもの」よりも「8」というひとつの数字で表すことで概念として扱いやすくした。
この解釈を示す「思考(感情)」には、新しい事実やこれまでになかった素晴らしい発明などはなくあくまでも「マンガでわかる○○」のように個人のレベルで解釈し、テクニカルタームなど無く思考によって到達できる代物であって、別段新しいものである必要性すらない。
ただその思考が「複雑に見えるのかシンプルに見えるのか」の多寡があるだけだろう。


・読み手の多くは「当たり前」の解釈を求めていて、決して新しく斬新な気づきなどを求めているわけではない。だからこそそれらを求めない一部の読み手は「当然のことを喜ぶ」ことに対して辟易としてしまう。
世の中で繰り返し繰り返し凡百のラブソングが現れ、そのたびに「共感できる」「名曲」と言われるが「共感」という感情は何度行っても飽きることなく、快楽を繰り返すのにも近しい。

・人と言うモノの行動の根本は「興味」が存在する。ひとつ店のハンバーグが美味かったとしても他の美味い店を探しに行こうとしてしまう。その店が絶対的に、最上位に、自分の嗜好に合っているとは言い切れず、嗜好と言うものは必ずしも一つの指標で計れるものではないからだろう。もしかすると、他にも、あるいは、これはこれで。


・日記というものは「情報」+「思考(感情)」の顕著な例と言える。
「昨日、病院に行ったら○○という症状と言われとても驚き」
などという記事があったとする。
それは病院や症状の「情報」と行くという個人的経験則と、驚くという当時の感情ログであり「思考(感情)」に相当する。


・人間の脳は忘れるようにできている。
昼間、情報を貯め込み、その取捨選択を睡眠中に行う。
その際に見えるノイズが夢と言われているが、忘れていいことと忘れてはいけないことをオートマチックに行うように人間は自然できている。
「興味を向けるリソースが云々」などとも言うけれどそのリソースは主に時間でしかなく「興味と言うものが10としてたとえばアニメに3、映画に2~」などと思考自体を数値化しそれを割り振って「リソースが足りない」などと言うのは、情報の取得に対して自分勝手に限界を定めているに過ぎず、そもそも現状、人間の脳はオーバーフローを起こすほどの情報量を得られるようなインターフェースを獲得していない。
それにどうせ忘れる。

・頭が良い悪い、と言うのは、主にメモリーの差ではなく、情報を取得し解釈する際のフォーマットを獲得できているか否かに過ぎない。
「授業についていけない」などというが、そういう人間でもゆっくりと解釈の仕方(フォーマット)から教えていけば理解はできるのであって、賢いと言われるひとはそもそも多くのフォーマットをすでに獲得しており新たな情報を得てもそれを自己で解釈し処理する。だから情報が処理しきれないということがなくスムースに吸収される(効率化、ショートカット)。
人間が理解出来ることは、人間が理解できる。


・ブログ(Blog)と一般に呼ばれるものは「情報」+「思考(感情)」を元に書かれている。
差異は、どれもその「情報」「思考(感情)」の多寡の差があるに過ぎない。

・専門的(マニアック)な知識や情報に欠ける書き手は「思考(感情)」に偏り、個人的な専門的(マニアック)な知識や情報に欠け思考に欠ける書き手はさらに感情と経験則に偏る。
とはいえ専門的(マニアック)な知識や情報というのは、一朝一夕に手に入るわけではない。
なので多くのブログは、感情と経験則が多く、次いで思考が、そして情報になる。

・だが今やネットには個人的な専門的(マニアック)な知識や情報が溢れており、にわかでもそれなりに個人的な専門的(マニアック)な知識や情報を知っているかのようにもふるまえる。
もちろん個人的な専門的(マニアック)な知識や情報とはいえ網羅できているわけではない。
個人の経験と観測範囲は、アカシックレコードを参照できず、ラプラスの悪魔にも劣るのは当然のことであり、膨大な情報量のデータベースに人間は勝てない。


「思考系、感情系のブログが多すぎて飽きた」と書いてる増田が以前あったのを思い出したので考えた散文。
思考の整理学 (ちくま文庫)