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お笑いの「ヤラセ」と「演出」の合間

お笑い テレビ

「エンタの神様」と、テレビが見せる、解けない嘘のこと - オーバー・フロウ

記事の中身はそれとして、気になったのは

「エンタってヤラセなんだぜ」って言う人は多い。

なんとなく「エンタの神様という番組は、ヤラセをしている」みたいな認識は、一部のテレビやお笑い好きに限らず、割と広いレベルで持たれているようにも思われる。
(中略)
言うまでもなく、プロの芸人がエンタの神様のステージに立てただけで急に舞い上がって本当にケンカをするわけがないし、ウンコをするはずがない。そして何より、「エンタの神様」という番組は、大量に収録したネタを、ぶつ切りに加工して1時間のプログラムにするような、良くも悪くも超強力な演出のもとに管理体制化された番組だ。芸人側から持ち込んだハプニングをそのままぬけぬけと放送するなんて、万に一つもありえない。







それを人によっては「ヤラセ」と呼ぶだろうし、人によっては「演出」と呼ぶだろう。ある人は「悪質な番組だ」と言うだろうし、ある人は「芸人さんも納得の上で出演しているのなら、いいのでは」と言うだろう。

何にせよ、エンタの神様というのは、その辺の虚と実の境目を縫うように走ってみせる、その過程では、ただの悪質なヤラセやサクラとしか思えない場面や、大テレビ局のゴールデン番組という立場を使った若手芸人へのパワハラとしか思えないようなひどいネタを強要している場面も見せてきたし、それでも、常にそれに対しての批判の声を嘲笑うかのように新しい、虚実ないまぜのネタを作って見せ続ける。そんな番組だ。

んー。
つまり記事主さんのいうところ(言われているとしている)の「ヤラセ」とは「編集」「演出」「サクラ」辺りを指すのかな。

誘い笑いの文化

たとえが古いんだけど「世界の料理ショー」や「奥さまは魔女」なんてものがあった。
あれには恣意的に笑い声が入っていたり、生放送の場合はカメラ外のフロアーで笑いのタイミングを指示してお客さんが笑う、なんてことも行われていたらしい。

奥さまは魔女Bewitched 1話 オープニング - YouTube
海外もののコンテンツではこのしらじらしい笑いの挿入は結構よく見る手法。
日本であれば関西の劇場には笑い屋のおばはんと言うものがいて、笑い屋のおばはんが率先して笑いそれに釣られて周囲も笑い空気を作っていく、と言う文化がある。

舞台は、演者が単体で作るものではない。
よく芸人が舞台を終えて次に代わるときに「暖めておきました」などというが、お客さんも若手の前座で盛り上がれば後半の大御所も盛り上がるわけで、同じステージに上る者同士が協力して劇場の空気を作っていく。
番組の前説、なんかもそういう意味でお客さんにひと笑いしてもらい、説明も行うことでその後の収録をスムースにさせようという意図がある。スタッフの笑いは確かに寒い場合も多いが、あれにしろ演出の一環。
バラエティでスタッフが笑っているのを「100%本気で笑ってる」と思っているひとがいるのだろうか。


そもそもお笑いはエンターテイメント。
ガチンコ、セメント(作為的な演出、仕込みがない)でなければそれはウソだ、とは言えない。
もし「ガチンコ、セメントでないお笑いは劣る」ということであれば反対の「ガチンコ、セメントのお笑いこそが優れている」が是になるが、そんなはずも無く、お笑いを計る尺度として「ガチンコ、セメント」はズレているから齟齬しかない。

お笑いを計る尺度は「面白いか、面白くないか」
舞台を見に来たお客さんが笑い、楽しみ、席料払った分だけ喜んで帰ればそれが正しい。

大向う

ヤラセ、という言葉をWikipediaで引けば

全てのやらせに共通するのは打ち合わせするなど事実関係に手を加えておきながら、それを読者や視聴者などの受け手から隠蔽する事である。やらせの方法は様々あるが、制作者の意に沿う結果を生じさせるための人(事前の打ち合せを受けた素人や番組スタッフ、および芸能人を用意して演技させる手段が多い。このような人や物を用意する事は「仕込み」ともいわれ、ほぼ同義である。しかし一説によると「仕込み」は下記やらせ事件をきっかけに、それまでの「やらせ」を言いかえる言葉として業界内で定着したという。

やらせ - Wikipedia

となっているわけだが
「客席の観客はすべて仕込みのない素人であり、放送中に挟まれる笑い声はすべてリアルな生の声である」
と定義された過去はない。
事実「笑い屋のおばはん」にしろ隠しているわけでもなく公明正大に行われている。

たとえば歌舞伎で掛け声がかかる(大向う)。
あれにしろそれ専門のひとが存在していて組織があり交代で声かけを行っている。
彼らが声をかけることで一般のお客さんも声がかけやすくなり、タイミングを暗に示すこともできるために舞台が盛り上がる効果がある。
歌舞伎にしろ狂言にしろ、客席に座り声をかける人間は必ず一般の観客のみである、などと言う定義はない。
利益誘導でもない。
声がかからずしらじらしい舞台より、恣意的であれ声をかけ盛り上がる舞台の方が観客も楽しい経験が得られる。
ガチンコでのリスクテイクを行う必要性がない。

舞台においては演者、スタッフや観客も一丸となってその舞台を作るものであって、放送にしろタレントとスタッフ並びに観客や音声、音楽、テロップ、ワイプなど様々な手法を用い一つコンテンツを製作する。

カメラが切り取るセカイ

バラエティにおいて行われる誘い笑い、テロップとワイプによる観客への解釈・協調誘導など挙げられるが、どちらにしろ
「カメラがあらゆるすべてを映し、一切編集を行わず、音声はすべて生のモノを使用し、リアクションなどすべて一切の演出なく行う」
番組は存在していない。
ドキュメンタリーであれ、場面を切りだす際に恣意的な視点が伴い、さらには音楽の添付やナレーションなどによってベクトルは変わることもある。
ドキュメンタリーは「ドキュメンタリー」と言う名前のフィクションフィルムであり、ニュースは「ニュース」と言う名前のフィクションであり、編集者の意図は必ず介在し、提供される情報に編者の恣意的なバイアスは必ず存在する。
ただ「実際事実に比較的近い」というだけの差でしかない。

EXテレビ Osaka 上岡龍太郎 超過激テレビ論を語る - YouTube


なんでもかんでも「ヤラセ」と言えばいいという風潮もあるけれど、ヤラセとは「意図的な操作はないと明言しておきながらそれを暗に行っている場合」でしかなく、確かに演出との閾値は微妙なものではあるけれど、そもそもテレビの中でガチンコが存在している、と捉える方のリテラシーも問われる気がするが果たしてどうだろうか。

「ガチンコでなければコンテンツとして劣る」
という歪んだ考えがヤラセと言うコトバに安易に結びつくからややこしい。

テレビカメラは、すべてを映しだしているわけではないし、意図を持ち撮影し編集を介することでコンテンツに必ず誰かしらの恣意がこめられる。
それを理解できず、はっきりと明文化しなければ理解できないひとがいるからこそドラマであれば「この物語はフィクションであり~」という「ネコを電子レンジに入れないでください」的な注釈が必要とされる。
バラエティ番組で見かけた「この後スタッフが美味しく頂きました」にしろ、自分は食べ物を余らせ腐らせ平気で捨てているのにテレビの中で食べ物が出てきて小道具として使用された途端「食べ物を粗末にするな」と言い始める困った輩がいるからこそ表記せざるをえない。

繊細チンピラが横行するツイッターで見られる風景もテレビの潜在的なクレーマーが顕在化しただけなのかもしれないと考えると、昔から変わらず人間はめんどくさい生き物だなとしみじみ感じつつこの記事を終わる。


※なお、この記事はフィクションであり、実在の人物・団体・事件などとは一切関係ありませんし、思ってもいない想像にすぎませんし、どこの誰ともわからない人間が書いたものに何か期待するだけ無駄です
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