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お盆なので日本の宗教について一席

日常 ブログ

※専門ではないので個人的見解を多いに含みます
http://www.flickr.com/photos/10974997@N08/5311634873
photo by labocho

京都の市内。
鴨川の近くに住んでた。


明け方に家の前の路地から「おぉ~~」と低い声がする。
眠い目をこすり、覗いて見ると網代笠、手に鉢の雲水僧が一人立っている。
ウチの祖母が、お布施か何かを渡し、僧侶に向け手を合わせる。

寺から降りて、民家を回って喜捨を受ける、いわゆる托鉢の雲水。
「ほぉ~」と声を出し托鉢*1に回る。
今でも行われてるのか、どうか知らないけれど。
昔は、三条大橋四条大橋のたもとに托鉢僧が立ち、念仏を唱えている光景をよく見かけた。

お盆なので宗教について少し。







ボクの宗教に入れよ

日本人は、宗教と信仰に乖離があるように感じる。

念仏は唱えられない、仏の教えは知らない。
しかし墓参りには行く、初詣や、食事の前に手を合わせたりもする、神輿を担ぎ盆踊りをする。

大文字焼きすげー!
祇園祭って厳かな気持ちになりますよね、え?信仰?ないですけど??

祇園祭・宵山 - YouTube

日常のあちこちに宗教の形骸化した構造だけが残り、信仰心を伴わない。
だが「今年は彼女ができますように」「家族が無病息災で過ごせますように」などとお祈りなどの宗教由来の行為は行う。
信仰していない対象に向けて、祈りを捧げることに疑問を抱かない。

「神輿」は「御輿」。
「神」の字がつかない、単なる行事としてアイテムを担ぐ。
祭は本来、神仏や祖先などを慰霊する行為。
だけれど、現代の祭は御輿を担ぎ酒を飲み縁日を回りゆかた姿の女の子をナンパするためのイベントになった。

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キリスト教と日本の仏教・神道*2の大きな違いは、キリスト教が聖書という原点を持ち、そこにストーリーが存在し「アダムとイブがですね~」「キリストがゴルゴダの~」という新約や旧約の物語で一般のレベルでも教義を容易に理解出来るのに対し、仏教・神道は僧侶・神主と言う特権化された専門職が、念仏や教えなど知識的な側面を担う。
一般人が各家庭ごとに経典を持ち念仏をあげる、なんてことはない。
だから日本の宗教は、

神や仏、至上の概念>明確な信仰対象になる仏像>僧侶>一般人

という間接構造を持っている。
この辺は専門に学んでいる人には当たり前でしょうが。

一般レベルにおいて、原典になる教義が曖昧なため、仏教も、神道も、土着の民間伝承も、ごっちゃごちゃに混ざってるし(更には過去の神仏習合神仏分離廃仏毀釈もあり撹拌され)そこの境目はとても曖昧な認識になってることが多い。

歪み

そこで、歪みが生じた。

キリスト教圏は、神の教えを理解しているから行為は聖書などの教えに則る。
迷ったらマニュアル(聖書)を参照すれば、正しい教えと歴史がある。
祈りは、キリストやヨハネに対して行われる。
宗教的行為や儀式は信仰に基づく。


日本では、初詣や合格祈願に行くが、そこに信仰は存在しない。

日本人の多くは「無宗教」という宗教を信じてる。
無宗教は、宗教を一切信仰しないと言い、宗教的行為や儀式から信仰を取り除き、形骸化した行為だけを行うのが教義。
神道、仏教、キリスト教、なんでもかんでも取り込みチャンポン。
都合のいい時だけお祈りやお守りで心の安定に利用する精神のバランサー。

彼氏に「生まれ変わっても一緒にいたいね」など言いつつ、夏になると新倉イワオの「あなたの知らない世界」や稲川淳二怪談に怯える。

輪廻転生と幽霊は、コンフリクトを起こすけれどそこに違和感は感じない。


僧侶や神主は冠婚葬祭の専門職、托鉢僧はただ立っているだけで意味を理解されず。
神社は、お賽銭を年に一度投げに来る人々の受け入れ先。
慣習のかたちだけが残った。

座禅をしてストレス解消!心のメンテナンス★
滝に打たれて日常の疲れを吹き飛ばしましょう!
魂の浄化を!!
f:id:paradisecircus69:20140516125803g:plain
なんてキャッチフレーズで、禅宗山岳信仰的な行いがパッケージされ現代的なストレス対策やリフレッシュに利用される。
仏性は有りや無しやなんざどうでもいい。
滝に打たれ真言を唱える。

ト~イレ~にはぁ~それは~それはキレイな~♪

もともとかなり以前から民間レベルでは、神様仏様を単に
「神さまは見てる」
「バチが当たる」
「ありがた~い」

などと言う抽象的な捉え方をし、便利に使っていた。

念仏なんて「なんまいだぶなんまいだぶ」程度しか知らない。
何かあれば、お祈りをする対象として、神様仏様と言うものを捉えてた。

理由や理屈や論理ではなく漠然と神社も寺も道端の地蔵も仏壇のご先祖様も、それらは人を見守るありがたい存在、そういう
「よくわからないけどなんか人間を見守ってくれている」
概念がその時代の人間の精神の安定装置として機能していた。

ところが近年になり、科学と資本主義に押しつぶされ神が弱体化し、新興宗教ブームが起き、それに乗じて詐欺などさまざまな宗教(カルト)がらみの犯罪事件が起こり「宗教=怖い」「宗教=危ない」が根付いてしまった結果
無宗教最強w」
「宗教とか気持ち悪い」
「なんか壺とか買わされる」
「マインドコントロール」

というクリシェのイメージになった。
日本の八百万の神、というのは自然崇拝「すべての事物に神様が宿っている」というものでしかなかったのに。

トイレには~♪なんてのもそうですね。

トイレの神様/植村花菜 - YouTube

手と手のシワとシワを合わせて、南無~~~♪

今や「子供に宗教なんて!」という親御さんも多いのでしょう。
でも、だったら祈りたいときは誰に祈るんだろ?

ジョン・バーナード・ショーの言葉を借りれば、「信仰者のほうが懐疑論者よりも幸福であるという事実は、酔っぱらいのほうが素面の人間よりも幸せだという以上の意味はない」。

神は妄想である/リチャード・ドーキンス

神なんていない、すべて妄想なんだ。
死んだらすべてゼロ、人間の意識は脳を奔るパルスのノイズでしかないし存在理由なんてない、ただ産まれてきたのは遺伝子を繁殖させるため、と教えるドーキンス教を普及させればいいのかもしれない。

神は妄想である―宗教との決別神は妄想である―宗教との決別
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ドーキンスの「神は妄想である」の場合、かなりキリスト教を土台にしているので今回参考にしてませんが面白いのでオススメ


トイレをキレイにしてればいいことあるさ!が
「カルトだ!高級なトイレ用洗剤を売りつける気だ!!」
と言うならもうそれは話すすべもない。

必ずしも神や仏や宗教に関する知識や認識が必要、とも思わない。
知識や論理を知れば知るほど信仰新は減り、神と言う幻想をニヒリズムに捉える厭世的な史観になりやすい。
そのくせ、論理や知識で理解出来ることは世界の一部でしかない。

知性主義もある意味、盲目的な信仰とも言えるかもしれない。
南無~。

PV 筋肉少女帯-僕の宗教へようこそ - YouTube

*1:チャリティ募集

*2:神仏習合もだが、それらの区別すらあいまいな人も多い