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ご冥福をお祈りします

社会 ブログ

http://www.flickr.com/photos/98354062@N04/14171224960
photo by p.rueger



ご冥福をおいのりしない - 意味をあたえる

私はこの「ご冥福を祈る」についてちゃんと調べてないからわからないし、わかったら書けなくなるかもしれないから調べないのだが、もちろん個人が使っても間違いではない。しかし「ご冥福」の冥、は冥土のことで、福は幸福だろう。冥土の幸福を祈るというのは、かなり宗教がかっていないだろうか? 天国や地獄、または彼岸というものを真剣に信仰している人ならともかく、葬式のときに念仏を唱えるくらいの信心で、この言葉を使ってもいいのか?
(中略)
ところで「心よりお悔やみを」とあるが、そう言っているのは法人で、法人は確かに法の下の人であるが、心なんてないから、やはり心からのお悔やみなんて、嘘っぱちなのである。

ネットなどで見かける「ご冥福をおいのりします」と言う言葉がうさんくさく嘘っぱちだ、と言うことでして。
話題としては「何周目だよ」感はわかっとりますが。


一応、趣旨とは違うが、

葬式のときに念仏を唱えるくらいの信心で、この言葉を使ってもいいのか?

と言うことだが、それを言うなら信心も無いのに初詣に行き合格祈願をしてキリスト教でもないのにクリスマスを祝い教会で結婚式を挙げ古代ケルト人なんざ知らないのに仮装をしてトリックオアトリートとか言い始める日本人が「ご冥福を」と言う言葉を口にしていいのか?って疑問は、もう何が疑問なのかすらよくわからない。
「ご冥福を」と言っていい信心とダメな信心の閾値とか判定テストとかあるのかしら。


さてさて。
「心よりお悔やみを」と言う言葉が嘘っぱちだ、と言うのはその通りなのかもしれないんだが「嘘っぱち」はダメなんだろうか。
まぁ、ダメで無いならこの記事は書かれなかったと思うのだけれども。


お葬式ってのは生者のためにある。
死んだ人間のためだ、と言うファンタジーも解るが、実際的に言うならお葬式は死んだ人間と生きた人間が決別する区切りをつけるための行事と言える。

民俗学的なハレとケで言えば、葬式とは穢れを祓う儀式だった。

死をケガレとする理由は大体見当がつきます。死体は腐乱し、腐臭を放ち蛆がわきます。
放っておいては周囲の人は耐えられませんし、疫病の原因にもなります。古代の人は疫病は悪霊・怨霊の仕業と考えましたが、それは死のケガレと関係すると経験的に考え、死者を隔離するようにしたのでしょう。隔離する場所はもちろん墓です。
死というケガレに対すハレは葬式であることはいうまでもありません。こうなると葬式の元々の目的は故人を偲ぶことより、ケガレの浄化だったことになります。

http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/onryo/onryo05.htm

ケ(日常)が枯れる→ケ・枯→ケガレ。

物理的には、死体を腐らないように処理をし、埋める燃やす。
残された人間の精神には、葬式というハレ(非日常)を一度挟むことによって区切りをつける。

仏教の信心が無いなら鳥葬でも散骨でもいいやと言うゼロ葬が最近流行だが(下部リンク参照)、これは最近の核家族化や近親の繋がりが失われた結果、葬式を行いケガレ→ハレの区切りをつける必要のある人々がいなくなったと言うことでもある。
更に言うなら
「神とか仏なんかいないし、死んでも金がもったいない」
「墓なんていらないから海に撒いとけばいいんじゃね?」
という現実主義(ニヒリズム)の結果でもあるのかもしれない。
▲参考:ゼロになって死にたい「0葬」のすすめ【第1部】骨まで燃やしてください 墓はいらない | 賢者の知恵 | 現代ビジネス [講談社]


「形式」は、社会コミュニティを維持するシステムとして存在し、それに伴う心の有無に関わらず「あけましておめでとうございます」と言えばめでたいと思ってなくても「お前今年くらい死ねや」と内心思っていても表面上は円滑に進むしコミュニティは破たんしない。
「型」「形式」「儀礼」「マナー」というのはそういう「関係性をさし障りなく滞りなく安定させる」為に存在してる。


ところが今や潔癖主義がはびこった結果、
「お前は心の底から思ってないからダメだ」
「信仰も無いのに仏教用語とか口にしていいと思ってるのか?」

とか言うよくわからない正義(?)が見え始めた。
脊髄反射な感情論がメインではあるが)


ウソっぱちだとか心が無いとかそれがダメなことである、と。
でも、どうしてだろう?

ウソと言うのは、相手への気遣いだって含む。
思ったことをそのまま口に出し、思っていないことは絶対に許されない悪である、なんていう社会はよほど息苦しい。
ネットに書きこむ言葉には気遣いのある嘘が少ない。
だからギスギスしてとげとげしいと言われる。

心なんてないから、やはり心からのお悔やみなんて、嘘っぱちなのである

よくわからないのだけれど、嘘っぱちだと何かよくないのだろうか。


もしこの「お悔やみ~」を掲げている会社の誰か一人(あるいは親類縁者や友人)でも被害にあっているひとがいたとして、その会社の代表としてこの言葉が掲げられていたとすればこの言葉は「ウソ」になるのだろうか。そういう被害者の関係者以外はこの言葉を掲げることが、嘘っぱちで必要のない行為なんだろうか。
果たして「企業に属する全員が、一人残らず間違いなく心の底から悼んでいなければお悔やみの言葉は会社として掲げてはならない」と言うことでしょうか。


世の中は白か黒か、0か100かではない。
本当と嘘しかない世の中は一見キレイに思える。
しかし本当とも嘘とも言えない事柄があることで社会は回ってきた。
社会には、必要のないこと、いらないこと、上っ面、嘘、古臭い儀礼、無駄な旧弊、いろんなことはあるし、それが悪いことも当然ある。
が、すべてが悪いわけでもない。


繰り返しますが、嘘っぱちがいけないことだなんていつ決まったんだろう。
嘘っぱちや建前を悪く言うのは容易いけれどそれがなしで社会が成立するんだろうか。
よくわからない。

ご冥福をお祈りします。
図解 マナー以前の社会人常識 (講談社+α文庫)

※タイトルを「申し上げます」→「します」に変更