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サブカルとオタクの無益な輪舞(ロンド)


定期ポスト オタク・サブカル。
もはや恒例行事で、すっかり脳が硬化した竹熊健太郎氏が何を語っても
「ご飯はさっき食べたでしょ」
と返しておけばいいと思うのですがね。




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サブカル・オタクの話ですが、誰が何をしゃべってもバラバラ。
どこかで見たような話がまた繰り返される。

当たり前ですが。
その辺について。

おたくとおたく

イカす!おたく天国
「オタク」と言えばかつては宅八郎がアーキタイプ。
メガネに長い髪、紙袋、リュックサック。
オタクがまだどんなものか知られていない時代にテレビに露出した宅八郎はお茶の間に強烈なイメージを残し「オタクと言えば宅八郎みたいな」という認識をインプリンティングした。


時代は変わり、オタクも変わった。
あの時代のオタクは現在のアーキタイプではない。
電車男が大きなターニングポイント。

「オタク」とひと言で言ってもその「オタク」がどれを指すのか、それが人によって異なる。
想定する時代、イメージする時代、オタクもサブカルも。

中川翔子と泉麻人とは同じサブカルでも全く異なる。
なのにひとつの主語で網羅し話そうとする。

知識か嗜好か

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)
かつてのオタクは知識権威主義。
知ってる方が偉いから知識をため込んだ。

その辺はサブカルも変わらず。
だから渋谷直角「カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生」にも互いの知識を披露しあいマウントを取ろうとするやりとりが描かれている。


しかしネットが普及し知識の価値は下がった。
かつてのオタクとは知識を持つひとのことを指したが、今は「オタク的な趣味を好む」ことでオタクと称する。
同じオタクでも意味が異なる。
だからこそ岡田斗司夫は「オタクは死んだ」と嘆いた。
サブカルにしろ、かつてのサブカルはオタクとの境界すらあいまいなマニアだったが、今や大槻ケンヂ的なサブカルとオザケン的なサブカルが存在するし境界も曖昧。
一般に言われてる「サブカル女」がファッション(見た目、ありがちな発言)でしか判断されないのも実に類型的。

ジャンル

アイドル進化論 南沙織から初音ミク、AKB48まで(双書Zero)
オタクは「〇〇オタ」とよく細分化される。
ドルオタ、アニオタ、声優オタ。
鉄オタに関しては乗り鉄だの撮り鉄だのスタイルまで細分化される。

それに対してサブカルはどうだろう。
渋谷系……あとは。
サブカルもアニメは見るし、サブカルもアイドルを追っかけたりするんだが。
サブカルはライフスタイルでオタクは求道、と言われたりもするが、今の「自称おたく」らは求道でも無いし、アレこそライフスタイルだし、ファッションだし。

この辺も「サブカルとはひとつことを追求せずにファッションでオタク的なことをやってる軽い連中」っていうオタクからのサブカルへの蔑称って言う使い方もあった。
サブカルがオタクを差別してた、なんてことを全体に適用して言い切れるわけもない。


「サブカル」「オタク」という主語の大きさで網羅してしまうのもなかなかに怖いし、そういう違和感を感じずにまるで「おたくとはアニオタのことである」みたいな勘違いをされるのも気持ちが悪い。

ちなみにドルオタに関して最近のアイドルブームでのアイドルファンがかつてのアイドルオタクとあまり繋がってイメージされないのは、一時期のバンドブーム隆盛~小室サウンド、ビーイング勢らによって訪れたアイドル冬の時代によって断裂してしまった感じがある。
アニオタは連綿と繋がっているのに。

コミュ力


オタクであれコミュ力があって彼女が出来ると「あいつは(オタク)邁進し求道を捨てて女に走った」とオタク判定を外される。
チャラチャラしやがって。あいつは趣味でマニア面してんだろ、あいつはオタクじゃないサブカルだ。

そういうオタク・サブカル選別もある。

ログ

Mの世代―ぼくらとミヤザキ君
結局では全体像をどうやって知るか、と言えばそれは文献とかになる。
ところがその語り手が曲者なわけです。

それぞれが「こうなのだ!」と語りたい人ばかり。
その辺をベースに「当時の状況というのは~」と言ってしまうけど、じゃあその文献の整合性ってどこで保証してんのかね。
自分の記憶と繋がってないけどこの文献は何となく合ってるっぽいからこれで~みたいな引き方は恣意的な結論になりやすい。

ドルオタとアニオタにしろ「オタクはヒャッハー!」なレッドパージ世代にしろ直接食らったのはホラーマニア(オタク)で、次にアニオタ、でドルオタ。そりゃあそれぞれに温度も違うし状況だって違う。

当時の文献からその辺を知っても、それも著者とどれを読んだかという観測範囲。

地域・環境

16年目のサイキック読本
住んでるところが違えば温度だって違う。

「オタク・サブカル論争!」なんて京都に住む自分には全く関係なかった。
サブカルなんて東京の一部のひとらのことかなーとか思ってたくらいで。
「アレ?オレって(教養至上主義的に)サブカルになんのか??」と思ったのも後付けですし。

関西のサブカル界で有名な「誠のサイキック青年団」は、大槻ケンヂや岡田斗司夫らをゲストに迎えたり、サブカルだなんだなんてやってなかった。
関西的文化の土壌ではオタク趣味的なジャンルにサブカルのオシャレ感はない。
ゲスさはあったとしても。
どっかの地方のオタク・サブカルがまるですべてであるかのように語るからおかしなことになる。

さいごに

・時代
・知識量か趣味嗜好か
・ジャンル
・コミュ力
・地域(観測範囲)

誰かがオタク・サブカルを語るとき、これらがまったくもってバラバラで、誰かが語るときは単に関東の片田舎の自分の昭和の観測範囲がベースだったり、またあるひとは九州のどっかの地方の平成がベースだったり、またあるときは都下での大学辺りでの論争を間近に見てたりするし、あるひとは当時に書かれた本の受け売りだったり。
それらの語りが全て同じなわけはなく、だからそう言う各所の語りを網羅して「〇〇なのだ」というひとがいれば「あぁ、なるほど」と思うのだけれど、なぜだかブログを書くひとというのは大概「オタクとはこういうものであって」と書きたがるから関東の片田舎が世界の全ての真理であるようになってしまう。
そんなこともわからんのなぁ……。


いつまで踊ったってグルグル回り続けてバターにしかならない無益な輪舞。
なんでこれで盛り上がれるんだか……。

ミニシアターに行くのがサブカルで、劇場版アニメに行くのがオタク。

え?
じゃあ両方行くやつは何?

高円寺/下北沢がサブカルで、秋葉原がオタク。中野はおっさんオタ&サブカル。

それ、東京以外が一切想定出来てない。
サブカルとオタクって東京にしかないの?
それって単なる印象論やん。

何が何だからサブカルで何だからオタクなのか、と。
類似の趣味嗜好を好む趣味人でありながらそれらが分けられてしまうのはなぜなのか?ということですよ。
その呼称別ける意味とその閾値は果たしてどこなのか、と。
「〇〇だからオタク」とか性格判断テストじゃないんですから。


ましてや発端が……。


ですね。

それで終わっときゃゃあいい話。
どうせこの話の先に正しいオチなんてないんだから。

私とハルマゲドン (ちくま文庫)