芸術が絶滅すると聞いたので考えてみたけど絶滅しないっぽい

悩みのるつぼ〜朝日新聞社の人生相談より〜

メルマガで岡田さんはメトロポリタン美術館に行った話をしていますが、興味がなかったから、退屈だったから、「一直線に入ってそのまま帰ってきた」といっています。もう現代はグーグルマップのストリートビューとかでお散歩気分も味わえるし、わざわざその場に行かなくてもいいじゃん、行っても面白くなかったら別にUターンして帰ってきてもいいじゃん、というのはまぁそうかなと思うんですよね。私はもちろん芸術脳なので、「いや、ストリートビューじゃダメなんだよ、なぜなら……」ということを3000字くらいで暑苦しく語ることもできなくはないですが、実際そういう話も「【NYひとり旅/8】MoMA 身体を拘束し、移動すると感動する。 - (チェコ好き)の日記」でしてますが、「ストリートビューでいいじゃん」と考える人たちの勢いを止める自信は正直なところ、なかったりもします。

で、そんな岡田さんの話を読んだとき、芸術作品が展示される場所としての「美術館」は、100年後には消えてなくなってるかもしれないなぁ、なんて思ったんですよね。美術館という場所は、確かに退屈といえば退屈だし、興味ないから帰りたいといわれたら、それ以上引き止めることはできません。そんな退屈で面白くないところを、人間がずっと保っていられるわけがないです。そして、美術館が消えるということは、今私たちが想定しているような「芸術」という概念が死ぬ、あるいは大きく変わるということです。

http://aniram-czech.hatenablog.com/entry/2014/12/10/110036

んー、無くなるってのはどうかなとは思うんですが。
場の話は理解できます。



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音楽で飯を食ってるひとらをミュージシャンじゃなく「アーティスト」って呼ぶじゃないですか。
でもあのひとらの音楽がアートか否かと言えば疑問だったりするわけですよ。
「逢いたくて逢えなくて震える」なんて、アートって言うか習俗に近しいあるあるフラダンス。

もともと音をかき鳴らし踊る、あるいは呪い的な要素のあった音楽が娯楽になり、一方で高尚なモノとなった。

オーケストラの語源は、古代ギリシャの円形劇場の舞台上で、楽器奏者とダンサーに割り当てられたスペース(舞台の前の方)がオルケストラと呼ばれていましたが、その後、この場所に配置される音楽集団がこの名称で呼ばれるようになり、このオルケストラがオーケストラの語源だと言われています。

オーケストラの歴史

円形劇場という「場」で鳴らされる音楽は巷間での一般習俗・娯楽より上の「芸術」に格付けされた。

録音技術が進み、音楽はその場に聴きに行くものではなく耳で愉しむものと化した。
記録された音をいつでも楽しむ、そしてそれを売る。
本来リアルタイムでなければ成立しなかった音楽が、録音技術によっていつでもどこでも聴けるようになる。
まずここで「場」を含む芸術だった音楽は、音だけを切りだした娯楽になった。

で、『複製技術時代の芸術作品』なんですけど、この論文の概要をざっくりいうと、今まで(近代以前)は礼拝の対象だった芸術が、複製技術(ベンヤミンの時代でいう、写真や映画などの技術)の登場によって礼拝というよりは展示の対象になり、結果的に大衆化が進んだ、みたいなことが書いてあるんですね。ここでベンヤミンの著作のなかでいちばん有名な言葉かもしれない「アウラ」が出てくるんですけど、「アウラ」とは事物の権威、事物に伝えられている重み、のことだそうです。絵画や彫刻などの複製不可能な芸術に比べると、写真や映画などの技術によって作られた芸術からは、この「アウラ」が消える、みたいな話をしています。

これまんま、音楽は既に通った道なんですよ。
そして音楽は大衆化した。


「アウラ」って解りづらいので噛み砕くと「一回こっきりだからの大事さ」って言いますか。

ライヴって一回こっきりだから貴重なわけです。
それがアウラ。
ところが複製技術が進み、ライブ音源CDが出てくることで「え?CDで聴けるなら行かなくていいんじゃね?」と考えるひとらが増えることでアウラが消える、ということと理解していただければ。
厳密には色々他の考えもありますが、ざっくりそんな感じ。


で、音楽ってのは当然ながらライブ演奏の「場」で聴くものと、CDで聴くモノは全然違う。
違うからこそアウラが保持されてる、ともいえる。
ライブは、音を耳で聴くものではなく感じるものなので。
オーケストラのCD聞いたって、芸術劇場とかで聞くのとは全然違う。
CDは鼓膜を震わせ、ライブは音を全身の皮膚や肉や骨(via楽園追放)で感じる。
使う感覚器が違うんだから相違は当然ですが。

私たちが生きる世界で、ベンヤミンのいう「アウラ」はもうほとんど消えかかっています。

ん?そうかしら?


しかし絵画はもともとアウラは画自体にあって、どこで見たって画は画。
音楽みたいなリアルタイム性~時性を持たない。
即興絵画みたいなパフォーマンス芸は描いてる過程にこそ価値がありますけど。

だからって「どこで見たって画なんて同じじゃね?」はやっぱり違うんですよね。
画の写真がカタログに入れてあって、それを見たってただの写真でしかない。
美術館まで行って、その画をじかに見れば細かな筆遣いとか、その場で一緒に同じ絵を見ている人々のささやき声とか感覚とか、美術館の空気とか、漠然としたそんなものも全てひっくるめてその画の「アウラ」なんすよね。


ミレイの描いた「オフィーリア」って画がありますけど、アレの実物を見たときにその画の前で10分だか20分だかずーーーーーっと見てましたから。
それだけ見るに耐える情報量があるんですよ。
美術手帖3月号増刊 ラファエル前派 19世紀イギリスの美術革命
見ても見ても尽きないから、見ていられる。
ウチと一緒に美術館行くとめっちゃ時間かかりますからね。

視覚として見るのと、画を見る(鑑賞する)のは違うと思ってる。
鑑賞ってのは「読み説く」って言う方が感覚的に近いと思うんだけど。


「画なんて写真で充分じゃね?」という考えもわかるし、時代性や価値の変化でアウラが失われていくから~というのも理解できなくはないんだけど、音楽が未だにアウラを保持し続けているように絵画だってアウラを保持すると思うんですよ。

なぜかといえばデジタルはアナログ情報を完全に補完できないから。
デジタルデータはデジタルとして複製できる。
しかしアナログの事物を完全にデジタルに置き換えるなら、それなりのデータ量になる。
その場の漠然とした空気感とか感覚とかをデジタルデータに落とし込めるか否かってね。
巨大な絵画や彫刻を目の前にしたら、あの巨大さってのはそれだけで訴えてくるものがあるわけです。

ちょうどメトロポリタン美術館でピカソ展に行って、キュービズム展やってたから、ザーッと行って見たら、「ピカソの初期はデッサンが上手いわ」って思ったんだけども、それだったら俺、「貞本君の絵の方が良いや」とかって思って(笑)。
 
まあ、何の感慨も興味も湧かなかったよね。それは僕のもちろん情緒的な欠陥だと思うんだけども。アートや芸術にもうすでに価値はなくなってる。本当に俺、そう思うんだよ。

というか岡田斗司夫がキュビズムの絵画を見て「貞本君の絵の方が良いや」ってのは個人の趣味嗜好w
しかもよりによってキュビズムって、評価軸が上手下手に存在しない絵画じゃないですか。
それを比較してもなんだかなぁ、と。

音楽に置き換えてみて”オウテカとゆるゆりを比較して「ゆるゆりの方が良いや」とか思って”ってのとどんだけ違うのかわからん。


たとえば攻殻機動隊のイベント行きましたけど、なんぼ攻殻好きでも展示してる画一枚に10分もかけられない。
さっくり1分観れば飽きちゃう。
情報量が無いんですよ。
特にコンテとかラフとか。
販促絵だとかポスターとか、そういうものでも書きこみはすごいけどだからってそれを10分観るのはキツイですわ。
それを観る鑑賞の概念を捉えられてないのかもしれないけども。

そーいうモノは動きの下準備でしかないから読み込むだけの情報量を持ってない。
貞本氏の画も確かに上手いけど、じゃあ鑑賞するだけの強度があるか否かって言えばどーですかね。
完全に趣味の世界じゃね?としか言えない。
貞本義行画集 CARMINE (通常版)
たとえば、このアスカを10分観るのはしんどいなぁ。
嫌いじゃないですけど。
だってこれはアスカを描いただけだから。
アスカを知ってるひとがアスカというキャラを前提で見てアスカと理解して強度がある。
これアスカを全く知らないひとが(100年経って)じゃあ強度あるか否か?ってことなんすよ。

でもオフィーリアってオフィーリア知らなくてもある程度の強度がある。
アレは絵画だから。
イラストと絵画ってそこが違うんですけどね。

「上手な絵に何の価値があるの?」って思っちゃう。そんなものより、あるアーティストや工芸家たちが考えて、「こうやれば早く飛ぶんじゃないか?」「いっぱい人を乗せれるんじゃないか」「いっぱい武器を乗せれるんじゃないか」「敵の攻撃をかいくぐるんじゃないか」「旋回半径を小さくできるんじゃないか」という結晶として、現実にあるエンジン、ガソリン、いろんな制約の中で組み上げていった飛行機の曲線はすっげー美しいと思うんだ。

これ岡田斗司夫氏はフォルムを見てそこに辿りつくまでの時間とか思考を見てそれを「美しい」と感じてる。
でも絵画を観る人らって絵画の表面的な美しさだけじゃなくって、一本の線にそういう時代とか思考とかその絵画の経てきた歴史や書き手の背景を見るわけで、観方としてはコンテクストを読んでるって点で一緒なんすよ。
でもパラダイムが違う。
だから岡田斗司夫はエンジンに美しさを感じても絵画にそこまでの美しさを感じてない、そんだけの話なんすけど。
マルエツにいる主婦にコンテクストは理解できない(ひとが多い)からエンジンの美しさは解らないですよ(大概)。
そんなもんじゃね???


強引な比喩話に落とし込むとすると「ラーメンって店まで行かなくても、最近のインスタントってよく出来てるからそれで充分じゃね?(複製によるアウラの消失)」と言うひとに「いやいや、お店に行ってあのカウンターで食べるから美味いんすよー(アウラ)」とか言っても仕方がないし、そういう舌のひとら(審美眼や絵画を鑑賞するためのコンテクストがない人々)が増えていって「みんながインスタントで充分ってなったらラーメン屋って潰れんじゃね?(芸術の絶滅)」となるか?って話だとざっくり理解したんだけど違うかしら。

もーすぐ絶滅するかどうかは知らないですけど、まぁ、そんなもんじゃねーかなーと。
岡田斗司夫氏の言うことは話半分で聞いといて、いいとこだけ採るのが上手い方策だと岡田斗司夫の本を読みまくってる自分は思うわけです。
あの方の本は「オタクの息子に悩んでいます」だけ読んどきゃあいいと思うけど。


芸大出のひとの芸術論にケチつけるつもりもないので、こんなもんで。
学のある方が滅びるっていうのなら滅びるんでしょうし。
とはいえオーケストラも権威バリバリで未だにやってますけどね。

メトロポリタン美術館行ったこともないですし。
素人目線では「滅びねーんじゃねーかなー」と思う、ってだけのお話。

マルちゃん正麺醤油味 5P×6個