読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ヤンキーとありがとう(リスペクト)とラップ

音楽 社会

ありがとうラップはヤンキー達がふてくされて悪循環に入らないために
「ありがとうと言いたい、言える人にはありがとうと言おう!ありがとうと言われて嫌な気分になる人はいないんだから」
というところから来ている。

育ちが悪かった人がようやく気づいたり、身近にヤンキーがいる文化圏の中で育った人がヤンキーなりの処世術と社会正義の啓蒙…そして、ありがとうと言える人が増えたらいいなぁ…という願いがこめて歌ってる。

TM氏久しぶりだわ。
まとめていないので散文的だが日本のラップと感謝について少し。

読んでみたらTM氏が、ラップ聞かずに書いてる感じがヒシヒシと伝わりましてね。
そこがメインじゃないんだよ!と言いたいかもしれませんが(どっかのお医者さんみたいに)。
※ただし「未来予想を嗤え」は一読の価値のある本だと思う


日本だとラップ=ヤンキー的なイメージが根強い。
しかしこの組み合わせは、実は面白い側面を持つ。


マニュアル的に1970~80年代、アメリカNYのブロックパーティを発祥とするヒップホップカルチャーに含まれるオールドスクールなラップミュージックを源流にしますが、ラップとは”ドロップイン”のための音楽だったのだそうだ。

Grandmaster Flash - The Message (Live The Tube ...
白人至上主義なアメリカ社会でブロンクスに住む低所得者らがラップ音楽で世に出る……サッカーでなりあがるブラジルのようだが、だからこそアメリカの(特にギャングスタな)ラッパーは金ジャラジャラの鎖を下げ入れ歯をして成功者としてメイクマネーを歌う。
社会の外から白人主体の資本主義社会へのドロップインの手段。
蟹江が大学を中退し「The College Dropout」と言うタイトルでアルバムを出したのは、社会の中(大学)にいたからでしょうが(とはいえ仕事が忙しくて大学やめたんだから既に成功しかけてたわけですが)。

We Don't Care- Kanye West - YouTube

長谷川 ロックで「ドロップアウト」を歌うってことにも矛盾があるんですよ。「ドロップアウト」を歌って人気者になると、打破しようとしている資本主義社会の成功者になっちゃう。所詮は商業音楽ですから。
大和田 その矛盾を真面目に考えすぎるとジム・モリソンやカート・コベインみたいに自己破壊に向かってしまうということですね。
(中略)
大和田 以前、菊池成孔さんが、ロックとフォークは自殺ばかり考えていて、ラテンは他殺のことばかり考えていると言っていて、この図式で言うとヒップホップも完全にラテンですよね。

文化系のためのヒップホップ入門

矛盾は抱えていてもロックは、社会からはみ出す……ドロップアウトの音楽として存在し、だからピストルズはアナーキー・イン・ザ・UKを歌い英国女王に中指を立てて見せる(特に商業主義な米ロックではなく、英パンクロックに顕著)。
日本でも、音楽が社会の外から社会の中で成りあがるためのドロップインの手段ではなく(唯一的に矢沢が「成りあがり」を謳ってるが)ドロップアウトの側面が強いかも知れない。
それはロックもラップも同じ。
いわば「手に汗した正業」としてミュージシャンを認識されづらいと言うか。
だったら公務員になれみたいな高度経済成長を支えた価値観。

40代、職業・ロックミュージシャン 大人になってもドロップアウトし続けるためにキッチリ生きる、'80年代から爆走中、彼らに学ぶ「生きざま」の知恵 (アスキー新書)
音楽で成りあがり社会的成功を収め「金を稼いでやったぜ」と歌う文化がそもそも薄い(ジブラ氏などいるけども)。
大槻ケンヂもかつて

ポリシーよりも 彼女に服を
ひよったんじゃねえぜ心のままさ

タイアップ/筋肉少女帯

と歌った。
ドロップアウトなロックミュージシャンの筈が、筋肉少女帯の歌がCMソングに決まり「オレにチェリオを飲ませろ」と歌い、金を手に入れ彼女に服をプレゼントは出来るがロックとしてのドロップアウトと矛盾していることを歌った。

【懐かCM】チェリオ 筋肉少女帯(1989年) - YouTube


旧来的なヤンキー(チャンプロード読者がテンプレ)はYAZAWAを聴き、(ヤンキーが工藤静香に流れ、アイドル親衛隊な文化を受け入れるのも違和感がないのかもしれない)その後不良・ヤンキーがDQN、カラーギャングなど都市部で変化し聴く音楽が不良ロックからラップへとシフトした。
武装戦線のような革ジャン、バイクはロックであるがヒップホップなファッションではない。
だからあのクローズの作中世界は昭和の雰囲気がある。

現在は半グレが勢力を増し、暴力団が勢いを下げているから、どちらにも流れることのできないかつてのヤンチャな人々(になるはずの層)がマイルドヤンキーなどと呼ばれてしまうのかもしれない。


ラップとは都市部の音楽として認識される。
だからこそ田舎ではミスマッチを起こす。
その辺は映画「SRサイタマノラッパー」などでも描かれた。

SRサイタマノラッパー映画予告編 - YouTube
都市部の「粋」を背負うラップに憧れる埼玉のラッパーSHOGUN。
ここでのラップはドロップイン(田舎→都会)という構造を持ち、しかし都市部で実らず搾取され路を踏み外す姿が続編「SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」で描かれるのも面白いところ。

もちろんこの「ラップで田舎から都会へ」は吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」に源流を求めることが出来る。




話を戻す。
TM氏の言うような「ありがとうラップ」は保守的な側面が強い。
これは
「若気の至りからドロップアウトした歌い手が成りあがり、そこで家族の大切さを謳う」
というヤンキーイズム的な構造を持つ。

三木道山「LIFE TIME RESPECT」で歌うような”生涯変わらず愛する”誠実な愛を賛美して見せる。
(レゲエラップってところも重要かもしれない)
ヤンキー文化は”我等命有限友情絶対不滅成”などという友情、愛情などへの正直さが美徳。
殴り合いの勝負でもタイマンが美徳になる。

この辺、任侠映画が義理と人情を謳うにも拘らず、実際の近代ヤクザは義理と人情がないがしろにされていたりする矛盾にも通じる部分があるかもしれない(で、映画も深作監督らの実録路線→Vシネになったわけですが)。
主語が大きくて難しい。


純愛のヤンキーイズムは「若いころはやんちゃしていても幸せな家庭を築こう」という社会に収まる保守回帰な価値観。
ラップと言う音楽文化は前述したようにドロップアウトではなくドロップインなベクトルを持つ。
日本のラップ文化は独自発展を遂げているとは言え、社会的成功よりも回帰を目指す指向が強く思える。

TM氏の言う

ありがとうラップはヤンキー達がふてくされて悪循環に入らないために
「ありがとうと言いたい、言える人にはありがとうと言おう!ありがとうと言われて嫌な気分になる人はいないんだから」
というところから来ている。

と言うのは少し違う。
ヤンキー的なありがとうは「いろいろ迷惑かけてごめんね」のリスペクトが背景にある。
先に「つっぱることが男の たった一つの勲章だって*1」とドロップアウト(ヤンキー化)があり、そこからドロップインする(社会に戻る)循環構造の復路で機能する。
そのベクトルは「(オレの)家族」「(オレの)仲間」にしか届いていない。
ウィ―・アー・ザ・ワールドのように「みんなで愛を歌おう」ではない。
スケーリングは、オマエとオレとアイツの距離感。
遠いところのヤツなんて知ったこっちゃねぇぜ、文句があんならかかってこいや。
拳が届く距離、それがヤンキーイズムの制空権。
この歌をみんなに届けたい、ではないし社会正義の啓もうなどではない。

ヤンキーイズムとラップの含む文化のちゃんぽんの結果が日本的リスペクトに繋がって行くんだけど、この辺結構カオスで……。


とりま軽めに。
TM氏の記事で言うヤンキーが果たしてどこまでの主語なのか今ひとつつかめないし、「ありがとう(リスペクト)」を歌うのはそんなシンプルなものではなくて、あまり決め打ちで書いてると宇多丸から抗議文届くぞって言う、ね。

リスペクト / RHYMESTER feat.ラッパ我リヤ - YouTube

TM氏の場合、アイドルを知らなくてもアイドルとは~と語ってしまい、ラップを聞かなくてもラップとは~と書いてしまうので香ばしいのは相変わらず。
どれも前提が旧態然とした類型ばっかりってのが知らないひとには受けるんだろうけど……(その辺、あのお医者さんと似てる)。


この辺は深掘りできるところなので、もーちょっとまとめていずれ書きたい。
ちょっと上のだと浅すぎてマイルドヤンキーとか言ってる(博報堂の)あれと変わらない。
そもそものベクトルを持つ音楽が日本に入り歪む、そのときどの層に受けて、となると結構カオスですよねー。
しかもラップはトラックによってさまざまだし……。

ヤンキーとロックとラップ、ドロップインとドロップアウトと家庭願望。
ヤンキーと「かわいい」。

誰か書いてくれるならとても嬉しいんですが。
College Dropout

*1:男の勲章/嶋大輔