「文字」という構造と「文章力」という機能


たまにはマニア向けにダラダラとした長文でも。

養老孟司氏の「唯脳論」電子書籍が安くなってるんで(ブレイブリーアーカイブの合間に)読み始めたんですが、そっから言葉について以下に引用すると

言葉とはなにか。大脳皮質連合野の機能である。それがブローカの運動性言語中枢を経由し、運動系から表出される。
その表出された「言葉」から、「受け手」は自己の脳の中に、「送り手」の脳の中にあったものと、類似の機能を起こさせようとする。その伝達がほぼ完全であれば、「受け手」は「送り手」を「理解」する。完全以上であれば、すなわち「受け手」の脳内に「送り手」以上の反応が生じるなら、「一を聞いて十を知る」、あるいはそれ以上のことを知るだろう。「送り手」と「受け手」の脳内過程が言葉のやり取りにも拘らず不一致のままであれば、両者に不満が残る。「受け手」は、「送り手」が何を言っているのか、よくわからない。さて、「受け手」がバカなのか、「送り手」がダメなのか。
これが人類社会のモメ事のかなりの部分を占める。

唯脳論とはなにか

会話の場合、言葉以上に表情や関係性など言語以外の情報があり、それが言語の欠落を補い、あるいは歪める(ハロー効果、空気なども含む)。
しかし書かれた言語の場合、表情などの付加情報が無く、単純に「人間と言う生物がお互いの中の意識を共有するために設定した共通コード」としての言語だけでのコミュニケーションになる。当然ながら失われるものもあれば歪む部分もある。
人と人が内面(意識)で想起した全く同じものを共有できない~クオリア~があり、だからこそ言葉への変換は技術を要する。

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例で言うと
「イスラム国に二人の日本人が拉致され、人質として日本政府に要求を突きつけている」
というひとつの事実があってもそれに対して
「テロリストに屈するな」
「身代金を払ってしまえ」
「安倍が悪い」
「自己責任だろ」
「もう飽きた」
などとさまざまな意見が出る。
そして「テロリストに屈するな」と考えたひとと「身代金を払ってしまえ」と言うひとと「自己責任だろ」と言うひとが話し合ってもそれぞれの考えは合致せずに平行線を辿る公算が高い。
同じ事象がインプットされても、その個人の育った環境や思想・信条によってアウトプットが全く異なる。
同じ日本語と言う言語を使いコミュニケートは可能でも、内面での思考パターンは全く異なる。




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育った環境・教育・思想が、脳内に一定の道筋を作る。
産まれたとき、誰しも脳の中は「無垢」という草が生い茂っている。
生活、教育などで情報が入るたび、判断するたびに草を踏みしめ「けもの道」が出来ていく。
この時はこう考える、という前提が幾つも幾つも無数に積み上げられ、それぞれの人間の中に「思考の迷路」が出来上がる。

同じ入り口から入っても、迷路の道筋が違えば出口は異なる。
だから人と人は解りあえない。
クオリアは一致しない。
ヨハネがバベルの塔を建てようとした人間の言葉をバラバラにして以来、ひととひとが解り合うことはできなくなった。
同じ人間だが、同じ日本人だが、同じ脳内迷路はひとつもない。

だからイデオンであれ、ユニコーンガンダムであれ肉体から離れて初めてひとは理解しあえる。
それがニュータイプと言うひとの革s(ry


「話し合えば何とかなる」が幻想なのは、書き言葉と違い、話し言葉でのやりとりでは、ある程度の妥協点や歪みや欠落、あるいは諦観が発生するからで、本来であればお互いの主張を書き出し、残し、それぞれに確認しながら事実を突き合わせ解決する方がコミュニケーションとしての歪みは少ない筈だが、実際に行えば双方の揚げ足とりになり、都合が悪い部分は無視し、相手の書き損じや主張の弱点を責めることになる実例は枚挙に暇がない。

そもそも音韻による言語と文字による言語は異なる。
「○○と書けば○○である」という方程式が言葉ごとにあり、それぞれが結び付いている。
文字は「視覚」から入り「思考」へ至る。
会話は「聴覚」から入り「思考」へ至る。
道程が異なり、情報量も異なる。
インプットが異なるようにアウトプットも異なる。
「書く」と「話す」は違う。
「話せて」も「書けない」ひとがいるのは当然のこと。

ひとつの持論なんだけど、どんなに技巧を凝らした名文であっても、受け手の信じる主張と一致しないのであれば「よい文章」と認める人は少ないと思う。逆に適当にちょいちょいずぱぱって書いている落書きでも、受け手の信じる主張とぴったり合致すれば「よい文章!」と諸手をあげて賛成するのではないだろうか。

「文章力」についての雑感 - 無要の葉

話が逸れたので冒頭の引用に、話を戻そう。

文章読解、とは己の中にある「オレ的辞書(迷路)」との付き合わせである。
文字を自分の中の「オレ的辞書」と付き合わせ理解するから「オレ的」に合わない文章は受け付けない。

「心」は「脳」にあるのか、と言えばそれは違う。
「唯脳論」で養老孟司氏は「脳」は「構造」であり、「心」は「機能」であるとしている。
同じく「文章力」は「文字」にはない。
「文字」は構造であり、「文章力」は文字が連なりひとつの文章になったときに作り上げられる「機能」を指す。
ひとつの「文字」とひとつの「文字」が繋がっていても、それ以外の「文字」が違えば「文章」は異なる。
前段後段によっても異なる。
ひらがなひとつ、句読点ひとつで印象は変わり「オレ的」辞書との符合が変わる。

「文章力」という表面的なテクニックでなんとかなるテンプレートのような文章はあっても、実際に「文章力」を身につけると言うのは言葉と言葉の連なりに対してどこまで意識的になれるのか、ということと同意だと思うのだけれど。
「文章力」を小手先のテクニック……「モノ」として語っていることに、だから違和感を感じる。


「唯脳論」を読み終わったらまたいずれ。
かなり面白い本。
とはいえ今はブレイブリーアーカイブのイベント用にキャラを育てなきゃあならない(小並感

唯脳論 (ちくま学芸文庫)