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ツールとしての国語教育とそれ以外の重要性

社会

古典を読んでみましょう (ちくまプリマー新書)

国語教育ってほんと「教育」で、文字や言語の面白さまで届かない。
それが勿体ない。
以下、古典を含みツールとしての言語・国語教育全般についての雑感。



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日本語は漢字、ひらがな、カタカナがある。
ひらがなカタカナはアルファベットと同じく表音文字だが、漢字は文字一つで意味を持つ表意文字で音読み訓読みの読み方があり、英語と違い文字の順列も曖昧に使える複雑な構造の上、表意文字の漢字を組合わせさらに表音文字のひらがなをくっつけ送り仮名として読ませ、最近では英語をチャンポンにしたり、あるいは和製英語とか、ネット発の新語だの、特定クラスタ内で通じるジャーゴニズムな身内言語とか。
実にややこしい言語。

国語教育は、自然と日本語の文法に重きを置くことになる。
教えるのは基礎となる文法。
そして漢字や文章の読解能力、夏休み恒例の読書感想文や夏休みの日記。

でもこれっておもしろくない。
そりゃあ学校指定のなんかよくわからない名作とか言うヤツを読まされ、原稿用紙を埋めろとか言われて。
夏休みの日記っつっても朝からアニメ観て寝てただけ。
連体修飾語だの連用修飾語だの聞いただけでクラクラする。

だから夏休みの宿題は「ジョニーは戦場へ行った」のあらすじだけ読んで、戦争の悲惨さとかねつ造して出しましたよ。
高評価でしたが。
課題図書って嫌いなんすよ。


文章を書く面白さとか、言葉の豊さとか。
文章を読みこみ読みとる力が向上することで見える世界とか。
そういうことを「教育」で教えるのは難しい。

教えるほとんどがインプットの方法。
インプットしたあとでアウトプットするためのノウハウまでは教えない。
だから読めても書けないひとばかりが増える。

今さら「読書術」なんて本を読んで「本の読み方を学びたい」大人が多いのむべなるかな。
ま、大概は「情報収集・整理術」でしかないんですが。

・国語、特に古典は勉強する意味がわからない。Twitterで「いとをかしwww」とか使わない。実用性がない。
・英語は「できたほうが便利な場面がある」と思うので勉強する。
・自分は書きたいように書くし、読みたいように読む。そのための勉強には意味がないと思う。

どうして古典を「勉強」するの?意味あるの?⇒あるよ! - ミチクサダイアリー

(引用部を引用、ってややこしいけど消えたんだから仕方ない……)

こういう「ツールとして役立たないなら必要ない」という実際的な感覚は解らなくもない。
学校で教えるのは主に「ツール」なんだもの。
以前トフラーが第三の波で「産業社会に労働力として使える人間にするために学校教育が出来た」とのたまってましたが、そう考えれば学校がツールとしての教育を重視するのは順当と言える。

ツールとして機能しない「古典」を学ぶ意義は何か?と。
「古典」「意義」でググるとまず出てくる、ここの言葉を引用してみる。

じつは古典を読み学ぶことは、いまの自分の生き方に深く関わる。一言で言えば、〈近代主義や現代思想の相対化〉という意義をもつ。多くの人は、個人的にも社会的にもよりよい明日を築きたいと願っている。それには当然いまの姿がどうなっているかを知らねばならないが、これが簡単にはわからない。そこで古典世界に分け入ってみる。すると、鏡に映し出されるように、いまの姿がはっきりとしてくる。それと同時に、私たちが普遍的だと思って疑わないものの感じ方、考え方、価値観などが、必ずしもそうではないということがわかるし、時にその歪んだところやおかしな点まで見えてくる。いわゆる異文化理解が自らの文化状況を再認識させてくれるのと同様、古典学習はいまの自分の生き方を見つめ直させてくれるのである。

古典世界の魅力

百人一首などの和歌によって詠まれた恋の歌で遠い昔にもそう言った恋や愛などと言うものがあったのだなぁ、と言う細やかな機微と言うのは実は古典でしか学ばない。

歴史ってあくまでざっくりとしたトピック「歴史的事実」をタイムラインとして扱うだけで過去の人びとが人間として生きていた世相や情景などと言うものが浮かばない。

古典を読むためのツールは文法。
でも主眼は文法自体ではなく、文法を学ぶことで過去の詩歌や作品を読み、あるいはその言語の移り変わりを知ることの方にある。
トピックとして歴史で時代の流れを学び、古典や文学でそれぞれの時代の風俗などを肉付けする。
かつてひとが生き、恋の歌を読み、情景を歌い、死に、無数に繰り返され、連綿と現代に繋がってきた。


単にツールとして考えるなら国語は「今すぐ使える実用性のある言い回し100」を記憶しとけば足りる。
古典もいらない。
そんな時間があるなら将来のために複式簿記でも必修にしとく方がいい。

そうじゃなく、井伏鱒二や夏目漱石や森鴎外や阿部公房を読むってのは単にツールとしての言語ではなく、言葉と言うもので時間や空間を越えた、その当時の風景や情感がエンコードされている文学を読むことでその当時の風景を知り、自身の生きる時代を相対化してみたり、あるいは言葉による表現の奥深さを学ぶことで自身の言語的な、あるいは情緒的な面も育成しよう、という効果を狙ってるわけです。本来は。
表記文字と言うのは、さまざまな情報を言語としてエンコードするためのコミュニケーションツールですから。
ツールと言うのは使い方を学ぶだけじゃなく、ツールによって機能する実際を学ばなければ意味がない。

でも受験戦争だなんだかんだで教育が歪み、結果ツールとしての側面ばかりが強調され、ちきりんみたいに「実用性のあることだけ学ばせればいいんだ」という薄い考えの人びとが増えてしまった。
教育って本来的にハウトゥじゃないんですけどね。
学歴だの成績だの資格だのと言う明確なステータスで計る、と言う市場になってしまったがために教育の質も代わり意義も見失われた。


古典の授業は、正直どうでもいい。
教育で補えないような文学や詩歌を見て楽しむほうが価値があると思う。
でも過去の作品に価値がない、知らなくていい、学ぶ必要もない、とまでなってしまうと香ばしい。

鉄道線路と国道が、

こゝらあたりは並行で、

並木の松は、

そろってみちに影を置き

電信ばしらはもう堀りおこした田のなかに

でこぼこ影をなげますと

いたゞきに花をならべて植えつけた

ちいさな萓ぶきのうまやでは

馬がもりもりかいばを噛み

頬の赤いはだしの子どもは

その入口に稲草の縄を三本つけて

引っぱったりうたったりして遊んでゐます

〔鉄道線路と国道が〕/宮澤賢治

宮沢賢治傑作選 『銀河鉄道の夜』『注文の多い料理店』『風の又三郎』ほか