日本人はコミュニケーションがヘタか?

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日本人とヒッチハイク文化、はもともと相性が悪いと思う。

アメリカではユマ・サーマンが主演した「カウガールブルース」と言う映画もあったけれど。

Even Cowgirls Get the Blues 1993 Official Trailer ...
もともと狭い日本と広大なアメリカなど海外では環境が違うと言う要素はとても大きい。
電車、バスが通り、車も普及した現代であえて「ヘイ!」と親指立てて誰かが乗せてくれるというのは、テレビ番組の企画ならまだしも「タクシー拾えや」と言われてしまう。
経済的にバスなどに乗れないとも考えにくいし、もし乗れないほど困窮しているのだとすればそれこそ危ない。
家出してきた子供を乗せればそれこそ御用になってしまう。

日本ではひとが全くおらず数時間歩いても人里に辿りつかない、と言う場所は山奥でもない限りはなかなかありえない。
豆腐屋の車がドリフトするような人里離れた山道で美少女が手を上げてれば止まる可能性は無きにしも非ずでしょうが。
時と場合と人によるのかもしれませんが。




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日本人はコミュニケーションがヘタか?

以下は、平田オリザ氏「わかりあえないことから」からの引用。

アメリカのホテルに泊まって、エレベーターで他人と乗りあわせて無言でいるということはまずない。「Hi」とか、「How are you?」とか、とりあえず何かを言う。言わないまでも目で微笑みあったりする。
さて、翻って我が日本と日本人はどうだろうか?たいていの日本人は、エレベーターに乗ると無言で階数の表示を見上げる。

オリザ氏はこれを
「だから日本人はコミュニケーション能力が低いのだ」
とは考えない。

アメリカは、そうせざるをえない社会なのではないか。これは多民族国家の宿命で、自分が相手に対して悪意を持っていない(好意を持っているのではなく)ということを、早い段階でわざわざ声や形にして表さないと、人間関係の中で緊張感、ストレスがたまってしまうのだ。

日本では、言葉として言うのは野暮、空気を読め、と言うハイコンテクスト文化。
目を合わせたりしないで黙って扉の方を向き、階数表示をみんなで見上げる。
もしエレベーターの中で一人だけが扉ではなく奥を向いていたらどう感じるだろう?

コンテクストのズレ

オリザ氏がワークショップで行うスキットのひとつにこう言うものがある。

 列車の中、四人がけのボックス席で、AとBという知り合いの二人が向いあって会話をしている。そこに、他人のCがやって来て、「ここ、よろしいですか?」といった席の譲り合いのやりとりがあり、Aさんが「旅行ですか?」と声をかけ、世間話が始まるところまでがスキットになっている

ところが高校生にこれをやってもらうとうまくいかない。
オリザ氏は、高校生に理由を聞いてみた。

そこで高校生に「どうしてこれが難しいのかな?」と聞いてみると、いかにも高校生らしい答えが返ってきた。「私たちは、初めて会ったひとと話したことがないから」と言うのだ。誰でも最初は初対面だろうと思うのだが、とにかく他者との接触が少ないということなのだろう。

たとえば社会に出て営業職なら初対面の人と話したり、あるいは打ちとけたりするのも仕事だしどのように話しかけるか、と言うのも自然なものだろう。
しかし事務職など社内での決まったひととしか毎日会話しないようなひとが全く初対面の相手と話しこむことはなかなかない。
だからこれは高校生だから、とも言えないことなのだろう。

全く同じワークショップをオーストラリアで行うと「人種や民族による」という答えもあったのだそうだ。
そしてオーストラリアやアメリカでは「話しかける」が五割を越えるそうだ。
確かにアメリカ映画でも飛行機で隣り合わせて見知らぬ同士で話す、なんて光景をよく見かける気がする。
土地や文化によって基本的なコミュニケーションの方法が変わる。
「当たり前」はどこでも当たり前ではない。

日本と「個人」

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車と言うのはパーソナルな空間だし、そこに見ず知らずのひとを乗せるのは抵抗を感じる。
”袖振り合うも多生の縁”と言う言葉が現わすように見ず知らずの赤の他人を救うと言う文化は日本に昔から存在していたが近代化によって薄れた、と言うのはあるだろう。

アメリカでヒッチハイクと言う文化が発展したのはやはり風土やヒッピー文化の発展と言う時代のトレンドのもあるだろうし、銃文化が象徴するように「個人」が個人として責任を持つ文化だからだろう。

養老孟司氏の「無思想の発見」から引用するが、

日本の世間における、私というものの最小の「公的」単位、それは個人ではなく、「家」だった。日本の世間は「家という公的な私的単位」が集まって構成されていたのである。
(中略)
新憲法はそこに「個人」を持ち込んだ。
つまり「自分」が最小の単位だと、公に決めたのである。

日本の家屋が木と紙とで出来ていて、それぞれの部屋に鍵もないというのはこの「個人」の「私」ではなく「家」が単位だからで、だから外との区分けとして塀があり門があったのだ、と。
海外の家は杭柵(ピケットフェンス)で仕切られていて、壁は石で作られ、各部屋の扉ごとに鍵があり、そこで個人が切り分けられるようになっている。

そんなアメリカなど西洋文化では「個人」が単位で、それを守るために銃文化が発展したが、日本では「個人」と言う概念は輸入されたにも拘らず土壌は相変わらずのハイコンテクスト文化。
その辺で齟齬が生じてしまう。
それどころか最近では、シェアハウスなど日本的ともいえる文化が海外から入ってきて日本に定着しようとしているのだから実に面白い。

文化は後退するためのギアが付いていないから、新しいやり方で変えるしかない。
意識の高い人らが「新しい」と言っている行為の幾つかはとても古典的だったりする。
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ヒッチハイク文化が減っても代わりに、先ほど挙げたシェアハウスや、シェアカーや、初対面同士で旅行に行くと言うソーシャルサービスがあったり、ひととひとの繋がりはその時代と環境に合わせて変容していくんだろうと思うし、もしヒッチハイクがすたれるのだとすればそれは現代日本と言う環境や文化と合っていないと言うことなのだろうと思う。

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