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比較文化と相対的価値

社会 小ネタ

cild.hatenablog.com
ちょっと違うが。
「比較文化」とは、ずいぶん主語が大きい。

人間がなぜ比較をするか?といえば価値とは相対的なものだからだろう。



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三割うまい

「○○が美味い」

という美味さの尺度は感覚。

たとえば埼玉にチェーン展開するぎょうざの満州が掲げる「三割うまい」の「三割」には、まずなにかの数値化された味の基準があり、そこから三割味の指数が高い→美味いということでなければ具体的な三割という数字はおかしい。
もちろんキャッチフレーズなのでそんなものはない。

toyokeizai.net

最近は、味などの感覚的な指標を数値化しようという試みがあるけど、現状、味は相対的な価値判断であり、あの店と比べて美味いまずい、前と比べて美味いまずいを行っている。
先代より美味い、ウチの家より美味い、行きつけの店より美味い。
「絶対的価値判断だけで生きています」なんてひとはまずいない。

「なんか食べてる気がしないね。これなら吉野家の牛丼のほうがマシよ」

それを聞いて僕の心臓は鼓動をやめてしまった。一瞬、目の前が真っ暗になった。そしてふたたび動き出したときには、ノーメイクで薄汚れた50がらみのおばさんが口を歪めて笑っていた。

しかし比較文化批判。なんでも比較して語るのはやめよう - 散るろぐの記事で問題なのは、比較し判断するという行為自体ではなく、それを口にして言う・伝える・アピールすること。
比較することではなく、比較し「さげすんでみせる」←ココ。
比較自体を批判するのであれば人間の価値判断を根底から考え直さなければならないが、あらゆる事象を絶対的価値として判断する代替えがあるだろうか。

おとり

人間は、価値を設定する際、相対的に判断を下す。
以下、ダン・アリエリー「予想通りに不合理」から引用する。
ダン・アリエリーが、エコノミスト誌のウェブページで定期購読のコーナーを見つけた。

ひとつめの、ウェブ版の年間購読が59ドルというのは、まずまず手ごろだ。ふたつめの、印刷版の年間購読が125ドルというのも、少し高めではあるものの、まあこんなところだろう。
 ところが、三つめは、印刷版とウェブ版の年間購読が125ドルと書いてある。

1章 相対性の真相

ウェブ版:59ドル
印刷版:125ドル
ウェブ+印刷版:125ドル

どれを選ぶか?MITの院生100人で実験してみたところこんな結果になったそうだ。
ウェブ版:59ドル 16人
印刷版:125ドル 0人
ウェブ+印刷版:125ドル 84人

次にここから印刷版:125ドルを外す。
するとどうなったか?
ウェブ版:59ドル 68人(+52人)
ウェブ+印刷版:125ドル 32人(-52人)

おもしろいのは三択のとき0人だった印刷版を外した……ウェブ版、ウェブ+印刷の価格は変わらないのに選ぶひとの数が52人増減したことだろう。

ここで「印刷版:125ドル」は、おとりとして機能している。
ウェブ+印刷が割安であるという印象を付けるために「印刷版:125ドル」がある。
物の価値を相対的に判断するからこそこの結果になった。

ぶさいくは話しやすい

先日燃えてた「ぶさいくは話しやすいが、美人は話しづらい」も相対的。

産まれてずっとぶさいくな相手と過ごせば、ぶさいくな相手をぶさいくと思わない。
外観の差分を「美しい/ぶさいく」という社会的に与えられた評価軸で判断している。

あるいはぶさいくとされているひとびとが「かわいい」「格好いい」とされている社会であればぶさいくは格上げされる。
外観を重視しないひとなら話しやすさに外観は影響しないだろうが(するのか?)。

幼いほど外観を気にせず、徐々に社会性を獲得し自他の境界を認識し始め、やがて美醜の価値判断を行う。


アフリカでは肉感的で太っている方がモテるというが、やせている方が美しいという価値観は近代的。
大地母神信仰の昔から太っている方が美しいという価値観の方が古く根源的であり(動物的)根強いものだろう。
人間を動物として考えれば、産み増やすために豊満なメスの方が子を産む。
だからふくよかな女性に惹かれる方がより自然な価値観と言えるかもしれない。
文化的に近代化すればするほど動物化せず、やせた個体に美を見出し、性交に嫌悪を感じたりするのも興味深い。

2014年春夏のランウェイでリックオウエンスが、ふくよかな女性をモデルに使ったのも記憶に新しい。


相対的価値

価値とは、相対的である。

正義も悪も、美醜も。
なにより美味いか、なにより不味いか、誰より豊かか、誰より貧しいか。
人間は、生きる上で毎日のように無数に相対的な価値を判断している。

この価値観が未だ根底に存在するのは、人間という種が繁殖する上で有効だったからだろう。
文化的相対や価値の差によって資本主義や近代文明は発展した。
当然、文化は発展し新たな技術が登場すればさまざまなところにそれらの不具合も出る。
いい面もあるい面も当然ある。
競争を産み、戦争を産み、差別を産み。

しかし悪い面だけをやめ、いい面だけを伸ばそう、は理想的だがそれをできるなら社会はとっくにユートピアになってる。
根本的な価値観だからこそ変えるのは難しい。

この辺、興味のある方はダン・アリエリー「予想通りに不合理」をどうぞ。


ちなみに「比較文化」とは、文化同士を比較することなので、何かの価値と価値を相対比較するのは、比較文化のなかのごく一部でしかない。
「なにかを比較しこきおろしてみせる」というのは比較文化というよりも、「こき下ろすことをアピールし、他者との交流に使う」というコミュニケーションに属し、個人の性格レベルで解釈できる話じゃないだろうか(価値判断をすり合わせる)。
それに対し嫌悪感を感じたのなら、それは自分の価値観と違ったのだろう。
同じ価値基準なら違和感すら感じない。

親戚同士で集まるとか死ぬほど嫌いで、まずその場にいないのでそういう経験がないけれど。

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