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芸術と情操教育

ジェローム神父―ホラー・ドラコニア少女小説集成 (平凡社ライブラリー)

www.asahi.com

会田誠の某作品を巡って子供に見せるべきではないだの何だのと話題になってるらしいが、そもそも会田誠の作品はいろいろと燃えることもあるし、性的、思想的だったり、グロも多い。
子供向けの企画展のメンツとしてどうなの?というのも疑問だが、それ以前に果たしてアートを子供に見せるべきなのか?



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情操教育

英才教育だなんだと子供のころからハイコンテクストなコンテンツを見せたところで抽象性の多いものは大人ですら理解できない輩がゴロゴロしてるのにましてや子供に見せてどーするんだろう。
自分が理解できないものを子供に「これはいい(筈の)ものだから」と与えるということか。

自分の子供が、天才児でアートに触れさせることによって才能が目覚めるのでは?と期待してる親が退屈そうな子供を引きずり美術館へ行き、無理やり見せ「お父さん飽きたよ、帰ろうよー」と子供が駄々をこねて仕方なくファミレスに退避して夫婦でハンバーグセットかなんか食べながらこれじゃあ美術館へ来たのかファミレスに来たのかわからないなぁ、なんて思ったりするんでしょう、どーせ。
なんだそりゃあ。

そして子供は美術館→退屈なものというイメージを刷り込まれ、芸術から足が遠のくのが大概のパターン。

子供に見せる前に親が理解してんのか?と。
よく理解もしてないものを子供に「芸術は情操教育を養うのであーる」と盲目的に信じて与えるものですわ。

芸術には政治も思想も宗教も性欲も殺戮も、人の様々な醜い部分だって山ほど詰め込まれてる。
表面的でなくても暗喩的に、あるいは感性としてそういうことを与えられる。
目に見えず、明文化できない抽象性が伴うのが芸術というジャンル。
そういうものであるという前提で芸術を教えてなんぼじゃね。

もちろん「意味なんかわからなくても芸術に触れるだけでも意味はある」論者もいるけど。
それにしても触れるならそれは果たして選別されるべきなのか否か、と。
もし選別するならそれは何が基準になるべきか。
潔癖主義で聖別された芸術は芸術でもない。
ニセモノを与えて足りるならホンモノの芸術なんていらない。親だって理解できなければニセモノで足りる筈なのだし。

子供と芸術

子供に美術的な教育が必要か否か?と言えば果たしてどうだろうか。
ただ生きるだけなら複式簿記でも必修科目にした方がよほど役に立つ。

子供にゲージュツを見せたい親っていうのは果たして何を見せたいんだろうか。

www.mot-art-museum.jp

綺麗で写実的な風景画でも見せておけば情操教育が養われ、逆に裸婦やキュビズム、シュルレアリズムを見せるのは情操教育に悪いと思ってるんだろうか。
少なくとも東京都現代美術館でやってる企画展はそういうものではなかった。

今回の件でよくわかるのは、親が子供に見せたいゲージュツというのは「自分で理解できる思想的なものはダメ」(理解できないコンテクストで思想や宗教が入っていても理解できないのでセーフ)ということで、反対に芸術家にとって芸術を通じ子供に伝えたい事というのは全く異なるということ。

檄文

まずこの作品は、見た目の印象に反して、いわゆる「政治的な作品」ではありません。現在の政権や特定の政党を、利する/害するような文言は一言も書いてありません。文部科学省という役所全体に対して、不平不満を述べているだけです。公立ではなく民間の場であっても、芸術を使って政治的アピールはすべきでない、というのは僕のいつもの基本方針です。芸術の自律性を大切にしたいがための、自分用の戒めみたいなもので、他者にも求めるものはありませんが。
また、この作品には全体的にユーモアが施されています。「檄」と大書された墨汁がほとばしるタイトルに反して、文章の内容は全体的には穏健なものです。特に自衛隊によるクーデターを呼びかけた三島由紀夫の「檄」に比べれば、脱力感漂うヘナチョコなものになっています。そういう「竜頭蛇尾」的なユーモア構造が全体に仕掛けられています。

文章の内容はある意味「大したことないもの」です。特に穿った意見がそこに書かれているわけではありません。我が家の食卓で話されてきた日常(すなわち自分たちが美術家夫妻であるという自意識も薄れているような日常)会話のうち、「日本の教育への不満」を抜き出したものがベースになっています。息子は一生徒としての、妻は一保護者としての体験的な実感を述べていて、僕はオヤジ臭く「国家百年の計」のようなことを主に述べています。
(中略)
「個々人が持っている不平不満は、専門家でない一般庶民でも、子供であっても、誰憚ることなく表明できるべきである」というのは、民主主義の「原理原則」「理想」です。簡単に言えば「我慢しなくたっていい」「声を押し殺さなくていい」——その基本的な人生態度を、僕は子供たちにまずは伝えたいと思いました。その態度を少し大袈裟に、少しユーモラスに、そしてシンボリックなビジュアルとして示そうとしたのが、この「檄」と名付けられた物体です。
m-aida.tumblr.com/post/ー 2015年7月25日

この会田の言を採るならつまり「思想的な雰囲気の漂うものは子供向けの芸術にはふさわしくない」ということなのだろう。
でもそれって芸術なのかね。

最後に 〜芸術の高尚なイメージとカオスな実態〜

というか、親が望む潔癖な芸術を子供に与えることを情操教育と呼ぶんならそれって芸術じゃなくても良くね?

単に「ゲージュツ」というインテリゲンチャでスノッブな雰囲気だけをありがたがって情操教育ガーと叫んでるだけの感じがしてならない。
はたして子供に、本当に芸術を与えるべきなのか、与えるとすればそれは思想的、性的なものを排除した「キレイ」なものだけであるべきなのかね。
芸術って綺麗に見えてもカオスでドロドロしていて、ドブネズミみたいに美しい*1ものだと思うんですけどねー。
親は、子供にドブネズミを見せたくないんでしょうが。

ま、子供もいないんで”教育”はよくわかりませんが。
情操教育にふさわしいのかどうかは知らないけど、ただ子供向けにトゲを抜いた”芸術”による情操教育を行う意味がよく理解できない。
親にとっての芸術、芸術家にとっての芸術、美術館側からの芸術。

で、どこにも子供の意見がないな。

あれか。
親が勝手に甘くする辛くないカレーみたいなものか(違

つか1件のクレームで撤去に至るという……なにこれ案件。

MONUMENT FOR NOTHING

*1:リンダリンダ