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抽象的な事柄を抽象的なまま理解するのは難しい

美術

cyberglass.hatenablog.com

芸術を読み解いていって、それを解釈可能になるようにするためには、常日頃から沢山の芸術作品に触れている必要がある。また、その芸術がどのような歴史的文脈の中で成立してきたのかを知っている知識が必要である。その意味で、「芸術は記号化されうる」。

まさかさいとー氏が芸術論を語るとは思わなかった。
しかしその通り。
芸術とは言語であるが、言語で縛れない概念や抽象を表現するための言語である。




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例えばとある絵があったとする。
その絵を見たときに、感じる何かの感情。
あるいはその叙情、情感。
その絵画を見て、感じた「何か」。
それがその絵画に込められた「意味」と言える。
だがそれは多数の鑑賞者の中で一貫しない。

芸術とは抽象であるがゆえに多元的解釈が可能ではあるが、その多元的解釈があるからこそ芸術は分かりづらく、だが言語より意味と解釈が広く深いとも言える。

いわば表音記号がひらがなやカタカナだとして、表現や意味性を限定し記号化したのが漢字。
表現を限定せず多分に意味性をもたせたものが芸術であると考えれば、言語と芸術を同軸線上に並べることができる。
絵画や彫刻はいわば抽象的な記号の集積。
仮に言語とすれば長編小説のようなものと言えばいいか。
 
 
芸術を、感性や感覚という抽象で理解し、抽象のまま理解し飲み込むのが最も正しい。
芸術学習の弊害は、芸術を言語化し、作者の背景や作品の歴史を知り、知識として吸収させてしまうことで、必ずしも言語化でインプットしアウトプットすることは正しいわけではない。

評論家のクオリアは単に評論家自身のものでしかない。
そしてその言語化されたクオリアを前提として誰かが絵画を見れば「この絵画は説明通りなんだ」と思ってしまうこともある。
絵画が含む多元的案解釈が言語により限定されその可能性を失ってしまえば、絵画が絵画である意味性を失う。
もともと言語化できるのであれば言語で表現すればいい。

しかしそういった芸術学習による言語化を経て、評論家などの手により芸術が広く一般に膾炙されることもある。
芸術が理解することしかできない一部の人々の中での単なる抽象遊びで終わらないためには、芸術作品や芸術世界に権威をもたせるためジャーゴンを量産し、希少性を主張し、社会的に芸術とは素晴らしいものであるというインプリンティングをしておかなければならない。
だからこそ言語化は必要ではある。
だが必ずしも正しくはない。

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抽象は、理解が難しい。
抽象を抽象のまま理解する。
抽象で表現された記号の集積は、抽象として理解するのが正しい。
しかし芸術に込められた情報をエンコードし、それを言語としてデコードする際にデータが欠落するがそれを理解しない。
言語化できなければそれは理解できないということになっている。
そもそも言語が持つ意味は限定的で抽象には向かない。


現代は言語化され明言され限定されることを好む。
「〇〇のベスト10」リスト記事を読む方が、自身のリソースを割き作品を理解し判断し評価する抽象的な思考ルーチンを行うよりよほど楽。
ビジネス書やブログのテンプレートを見ればわかるように文章で長々表現されたものより単純な要約を求める。
本来、長々文章で書き綴られているのは表現したいこと、伝えたいことに対しその文字データ量が必要だからであって、にも関わらず、まとめや要約だけ読めば簡単に「理解」した気持ちになれる。
いわんや抽象をや。

明言かしないと理解できない、書かなければわからない、言語化されていないことは理解できない。
現代は芸術に対する理解が劣化する環境が出来上がっているとも言える。


「これは海の宝石箱やー」

と彦摩呂が自身だけの味覚のクオリアを比喩的表現で伝えるのは、「味」という感覚を言語化する際に「甘い」「辛い」というその単なる要素だけではない多元的解釈を一般に示す手法。
芸大出の輩や評論家の使う小難しい芸術のジャーゴンより彦摩呂のほうがよほど高度なことをやってる。
いわんやタージンをや。


以上、裏付けのない勝手な解釈でした(fade out...)


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