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果たして鬼教官フレッチャーはジャズで救われたのか? 映画「セッション」

映画


映画『セッション』予告編 - YouTube

名門音楽大学に入学したニーマン(マイルズ・テラー)はフレッチャー(J・K・シモンズ)のバンドにスカウトされる。
ここで成功すれば偉大な音楽家になるという野心は叶ったも同然。
だが、待ち受けていたのは、天才を生み出すことに取りつかれたフレッチャーの常人には理解できない〈完璧〉を求める狂気のレッスンだった。
浴びせられる罵声、仕掛けられる罠…。ニーマンの精神はじりじりと追い詰められていく。
恋人、家族、人生さえも投げ打ち、フレッチャーが目指す極みへと這い上がろうともがくニーマン。しかし…。

ようやく観て、ようやく町山vs菊地論争も読んだわけですが。
あ、以下はネタバレありますよ。




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音楽はすべてを超越するのか

フルメタルジャケットの鬼教官的なフレッチャーのしごきに耐え切れずブチ切れた主人公は、音楽の道を諦めバイトの日々、そんな中同じく音楽院を辞めさせられたフレッチャーにバンドに誘われ、最後の演奏に突入する。
 
 
最後の最後でカタルシスを得られるかどうか、なんですが個人的には菊地氏の理解に近くて(DCPRGが好きだからってんじゃないですよ)町山氏みたく最後の最後でカタルシスがどかーんとなって拳を振り上げて「やったー!!」なんてことはなかった。

この映画は、前半ニーマンがずっとフレッチャーに主導権を握られ、好き放題やられる。
しかし、ニーマンは自分が退学になるのと諸共フレッチャーを教官の座から引き摺り下ろす自爆テロ。
音楽のステージでは勝てない二―マンが社会的に一矢報いた形。

ただ、このままでは、ステージの上の、音楽の主導権はフレッチャーが握ったまま終わってしまう。

マウントの行方

そして最後のステージ。
前半、フレッチャーは自身が退職させられた復讐として、ニーマンのジャズマンとしての可能性を完全に閉ざそうとする。
フレッチャーが、単なる自身の経験からひたすらハラスメントで新人潰しをやる悪党なのか、それとも旧時代のスポ根的な指導なのか。
 
 
ちょっと最後の流れを整理しますが、

フレッチャーに誘われたニーマンはドラマーとしてJVCフェスのステージへ。ステージの前にフレッチャーから「スカウトが見ているし、失敗すれば未来はない」とハードルを上げる(罠の仕掛けを観客に説明してるセリフ)。

ステージへ。ニーマンが聞かされていた「ウィップラッシュ」ではなく新曲「アップスウィンギン」を始めるフレッチャー

フレッチャーの罠にかかり、ひどい演奏で恥をかかされるニーマンはステージを降りる

楽屋裏で父親に帰ろうと言われるが、ステージに戻る

突然、「キャラバン」の演奏を始めるニーマン。

仕方なく合わせるフレッチャーとバンド。

救ったのは主人公ではなく、音楽でした

格闘家たちがパンチを交わし合い、技をかけあった戦いの果てに世界のすべてを忘れてしまうように。
 楽しい。
 音楽は楽しいんだ。忘れてた。
 学校なんかどうでもいい。もう、憎悪も恋の悲しみも敗れた夢もふっとんだ。いま、演奏しているのが楽しい。
 二人の間にあるのは音楽の楽しさだけです。
 先生もまた地獄に陥っていました。
 音楽を愛する若者を音楽の名のもとに潰していたのです。
 その地獄から先生は最後に主人公によって救われます。
 いや、救ったのは主人公ではなく、音楽でした。
 最後には二人はもはや勝ち負けなんかどうでもよくなっていました。

 この部分は町山さんの解釈だと思いますが、実に素晴らしい。こうして読むと皮肉ではなく非常に感動的で、映画よりも、町山さんのこの名調子を読む方が感動するのではないか?と思う程ですが(「もうコレ読んで泣いたから、もう見なくても良いや」という方もいらっしゃるのでは?そしたら潰れちゃいますよ・笑)、正直、ワタシはまったくその気になれませんでした。
<ビュロ菊だより>No.63 町山さんにアンサーさせて頂きます(長文注意):ビュロ菊だより:ビュロー菊地チャンネル(菊地成孔) - ニコニコチャンネル:音楽

この町山解釈がしっくりこない。

最後の「キャラバン」の演奏中、指揮をとるフレッチャーとひたすらドラムを叩くニーマンが交互に(カメラはパンで)映るシーンがある。
で、ここで一体化をしてるように見えるんだけど、要はあくまでフレッチャーはバンマスでしかなくニーマンと音楽を介して繋がってるわけじゃなく、ここはあくまでも「主導権の握り合い」であって、フレッチャーは自身のバンドのコントロール下にニーマンもあるように錯覚を覚える。
だからここでフレッチャーは笑顔になる。
フレッチャーの支配欲が充実してる。

しかしステージの照明が落ちてもニーマンの演奏は続く。フレッチャーの顔は不審になりニーマンに(お前はオレのバンドの一部のクセに)「何の真似だ?!」と聞くがニーマンは(オレはオレがやりたいように叩いてるしお前のバンドの一部じゃない)「合図する」と答える。
ここでステージの主導権が、バンマスからドラムに移動してるマウント合戦。

フレッチャーは、ひたすらニーマンの挙動を見て、合図を待ってる。
ここまでは全てフレッチャーが合図してニーマンは従ってきた。それが最後の最後に逆転する。
二人の目が合い、一矢報いたニーマンとここでの負けを認識したフレッチャーは、ニーマンを指しバンドの演奏を合わせる。
そして幕。
 
この最後に解釈をどう取るかによって評価も変わる。

社会的に受けた恨みを音楽で晴らそうとするフレッチャーが最終的に救われるという理解は、映画的なカタルシスを求めるのであれば是なんだろうけど、あの演出からそこまで求めてしまうのはさすがにしんどい気がする。


最終的に二人の経緯を超えて音楽が繋ぐ「だから音楽は素晴らしい」だったら、フレッチャーはここまでエゴイスティックな悪役じゃないと思うんですよ。
音楽は素晴らしい、音楽は最高だってのに、その音楽を個人の復讐のツールとして利用するフレッチャーは音楽を愛してないようにしか見えない。フレッチャーって人間は、音楽よりも自分の怒りや憎しみを上に持っていく人間だってことですよ。

なにせ個人的に恨みからニーマンを罠にはめるためにフェスのステージ演奏を利用するんですから。
そんな人間が、演奏にどれほどの価値を感じてるのか。
 

ジャズと努力

SWITCH Vol.33 No.5  ジャズタモリ TAMORI MY FAVORITE THINGS

以前、SWITCHのタモリ特集でベイシーのマスター菅原氏がジャズについてこう言ってた。

「額面通りに受け取られちゃうと困るけど、俺は向上心なんてない人の方が凄いと思ってるのね。どういうことかと言うと、たとえば今かかっているこのベン・ウェブスターもそう、デクスター・ゴードンもジョニー・ホッジスもそう。
カウント・ベイシーもね。みんな向上心なんて微塵も感じられない。
(中略)
「本番で『もっといい音が出るはずだ』なんて思うとどんどん墓穴を掘ることになる。とはいえいまだにどうしてもその思いを完全には捨てきれないんだけど……。あらゆる勝負と一緒で、結局は敵は己にあるんだよね。それで自分に負けてしまう。だから図々しいとまでは言わないけれど、どこかで開き直って、平気な顔して押しまくればいい。その前に、ちゃんと準備をしておけばいいんだよ」
菅原正二「回り続けるレコードと共に」

努力や向上心があるとジャズではいい音なんて鳴らせないと言われる。
名プレイヤー ビル・エヴァンスは薬物乱用してたし、チェット・ベイカーだってケンカで前歯を折られてもいい音を鳴らしてる。

上記の菅原氏のジャズに対する感覚を前提にすれば、ジャズをやってる菊地氏が「セッション」を観て一切感情移入できないのは当然のこと。
ジャズと真逆のベクトルをやって、それが劇中では素晴らしいってことになってる。
娯楽映画なのだから、なぜか「ロッキー」になぞらえた町山氏の見方も別に間違ってはないとしても。

とまれ、この映画で描かれていた「ジャズ」が(監督の個人的経験からくる)トンデモ描写だとすれば、果たしてこの高評価ってのはどうなのかなーと思ったりもする。
結局、ジャズの実際が広く知られていないということがあった上でこの映画の評価はある。
 
 
それにしてもニーマン、忘れ物が多すぎ。
観ていて、そこに一番違和感を覚えた。

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