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命の重さと宗教という救済システム

小ネタ 社会

※当たり前のことしか書いてません
※めんどくさいです

brighthelmer.hatenablog.com

 ずっと以前、「人口の多い中国では、命の重さが日本とは違う」という趣旨の文章を読んだことがある。いまでもネットで検索すれば、そういう文章をすぐに見つけることができる。

 しかし、本当にそうなのだろうか、とも思う。子どもを喪った中国人の父母は「じゃあ、また新しく子どもを作ろうかね」とドライにさっさと切り替えられるものなのだろうか。

ともあれ、情報流通の流れの変化が今後も続くとするなら、先進国の人命だけを重く見るような認識のあり方はこれまで以上に大きな齟齬をきたすことになる。先進国での事件だけが世界的な注目を集めるという構造への批判はますます強くなっていくと予想されるからだ。

 もちろん、以上のように述べたからといって、パリでのテロが大したことない事件だとか言いたいわけではない。そうではなく、パリであれ、ベイルートであれ、バングラディシュの農村であれ、戦時中の中国であれ、人が死ねば悲しいし、それが理不尽なものであるほどに怒りも生まれる。どの命であれ決して軽いということはない。そのことをこれまで以上に強く意識する必要のある時代にわれわれは差し掛かっているのではないかと思う。

ということで、命の価値=人口として語られている。
だけれど、やはり人口数だけで語ってしまうといろいろと不具合が起きる。
 
たとえば中国という国においては、身内の命の価値がとても重い。
反対に言えば、身内以外は比して軽くなりやすい。
もちろん人口が多いという理由も否定できないが、そういった中華思想的な考え方も命の重さに大きく影響を与えているように思える。
 



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テロリストの部屋

「みんな同じ生きているから一人一つづつ大切ないのち~♪」*1
さて、命の価値はどこで決まるのか。
こんな思考実験をしてみる。

たとえばどこかにテロリストのいる部屋がある。
そこに二人の人間が入る。
するとテロリストは自動的にどちらかを殺す。
テロリストには“殺さない”という選択肢はない。
どちらを殺すか決めるのは、アナタだとしよう。

まず赤ん坊と老人が部屋に入る。
さて、どちらを殺そう?
 
アナタがどちらを選んだかはわからないが、老人を選ぶ方が多そうだ。
赤ん坊の方が可愛いし、長く生きる(筈)。
 
では、同じ年齢の男性と同じ年齢の女性ならどうだろうか。
なんだか女性を殺してはいけない気がする。
 
では、アフリカの子どもと日本の子供ならどうだろう。
日本人だから日本人を優先するか。
 
では、友人と兄弟ならどうだろうか。
もちろん関係性によるだろう。

では、キモヲタとツインテール女子ならどうだろうか。
迷わずキモヲタを選びそうな気がする。
 
では、ホームレスと内閣総理大臣ならどうだろう。
この場合、ホームレスを……あ、総理(ry
 
 
年齢、性別、国、関係、外観、印象、社会的地位。
人間はまったく均等な個体でない以上個体に差は生じる。
すべてを均等に判断できるほど人間の精神は冷徹にできてない。
さまざまな差異がアンカリングになって命の価値を左右する。
 
 

DNAの舟

では命の価値とは何か?

ニヒリスト的に言ってしまえばそんなものはない。
ただの共同幻想。
 
そこに漠然とした価値を見出すことで社会は成立する。
均等に価値がないならヒャッハーなウェルカム・トゥ・ディス・クレイジータイム。
f:id:paradisecircus69:20140305111337j:plain
だが死と命の価値が均等でないと露呈したとき、論理と倫理に矛盾が起きるからモヤモヤする。

人間の命が特別なのはそれを感じるのが人間だからであって、さらに言えば犬や猫の命は重くてゴキブリが軽いのも論理よりも人間に愛玩されるという生理による。
そしてひとによってはイルカやクジラを「賢いから保護しよう」などとも言いだすが、バカな生き物は殺してもよいが賢いとダメだという考え方自体根拠すらよくわからない判断軸に則ってる。
 
 
本来、そんなさまざまなモヤモヤを処理するために宗教が存在した。

宗教は、生や死や倫理を考える上での保険とも言えるシステム。
セリフィッシュジーン的に考えれば人間も他の動物と変わらず、ただ生きてただ死ぬ。
個体が死んでも種は続いて行くDNAの舟。
しかしそこに人間は特別であり尊厳があり素晴らしい生物であることにしたい。
そのために宗教は神を作り、神は自身の似姿として人間を作ったということにする。

しかし(日本では特にそうだが)神は死んだ。
神も仏もすでに便利な概念、キャラクター。
命の価値を考えるとき持ち出すわけにもいかない(信仰無しで突然持ち出すひともいるが)。
 
 

ボクの宗教に入れよ

イスラム教の死生観はどんなものか。

死に際して魂は一度は肉体から離れ、
終末の日に神の審判と救済のため再び肉体と結び付いて復活する。

ゆえに、火葬での肉体の消滅は神の審判と救済の否定となります。

つまり、人は死んでも「永遠」に墓のなかに眠るのではなく、
最後の日には呼び戻されて審判を受け、
生前の歩みにより分けられるという「復活」の思想があります。

ゆえに、「生」のための「死」であり、「死」のための「生」です。
イスラム教の死生観を教えてください。 - 死に際して魂は一度は肉体から離れ、終... - Yahoo!知恵袋

イスラム教において命の価値は、軽いか重いかではない。
生と死に関する考え方がそもそも異なってる。
 
宗教は本来、人間の生死に対し価値や意味を確保する仕組みがあるはずだが、神の存在が大きくなることで人間の命が小さくなる風にも利用される。
 
システムが先か人間が先か。
 
本末転倒な宗教システムの暴走によって人間の尊厳は至高の神にとって代わられ「神の名のもとに栄誉ある死を」遂げることを是とするシステムへと変わる。
神を理由にした宗教システムによる統制は十字軍然り。
 
 

「わたし」はとても大事

「私としての個人」
とは
「個人は社会を構成する最小の公的単位であり、その内部が私である」
ということである。日本の世間では、じつはそれがそうではない。日本語においては、この「私」という言葉が、「自分」個人selfという意味と、「公私の別」privateという、二重の意味を持つことに、ぜひとも御注意くださいませ。
無思想の発見/養老孟司

たとえば昔の結婚は家単位のものだった。
家というモノがあるからこそ、お見合いみたいなモノも成立した。
個人ではなく家族、家庭というものが社会の最小単位だからこそ個人の自由思考よりも家庭が優先された。
 
しかし近代化によって西洋文明が流入。
「自由」や「個人」が台頭を始める。
社会が成熟し、医療技術が進化し、命が伸びた。
すると社会を構成していた家族というシステムは崩壊し、核家族を経て「個人」が社会の最小単位と化し、しまいには「結婚はリソースに対しリターンが少ない」なんて話まで出てくる。
 
 
もともと生存率を高めるためにコミュニティは存在した。
小さなコミュニティは徐々に大きくなり、社会は成熟し、文明に比して命の価値も上がり始める。
子どもは国の宝であり、村の宝であり。
やがて家族の宝になり、今や子どもはいらないという話になった。
 
命の価値は文明によっても左右され、文化や宗教・思想によっても変わる。
だから一律に人口だけで計ることはできない。
 
だが、そもそも「命の価値」という概念は何をさすのか?
 
 

乗客に日本人はいませんでした

http://www.flickr.com/photos/98327290@N02/13307284214
photo by black.zack00

ニュースで報道される社会的価値と個人的認識には大きな齟齬が生じる。

「乗客に日本人はいませんでした」
を嫌うひとも多いが、それを聞いて安心する家族も大勢いる。

報道すべき情報を取捨選択する際、報道はナショナリズムに関するバイアスがかかりやすい。
別に他国人がどうでもいいのではなく、限られた枠の中で何かを選択しなければならないからこそ「乗客に日本人はいませんでした」に繋がる。
報道は“日本というクニ”のローカルニュース。

「一関市の“千厩川にサケをよぶ会”は人工滝の千厩川下流でサケを捕獲し上流での自然産卵を手助けしている*2
「広島電鉄、商業用地をイオンモールに売却」*3

地方だからこそ地方のニュースが流れるし、ローカルニュースに「アメリカの最新ニュースはどうなってんの?」と求めても仕方ない。
報道にも情報価値の優劣は存在するし、インターネットを利用している情報発信者の主体によって人命の価値がナショナリズムによる偏向を生むのは当然のこと。
震災のときだって関東では震災のニュースを長い間流していたが、関西では通常プログラムに戻すのも早かったように覚えてる*4
同じ国内ですら情報の価値は均一ではなく、バイアスがかかる。 
 
フランス人とイスラムで「命の価値」を問うならば当然価値は違う。
それは今やネットなどによってリアルタイムに他国のことを知れるようになったからこそ生まれた価値観であって、情報が未発達な文明下ならナショナリズム横溢する報道で満足できたろうが。
家族や友人がテロの犠牲になれば「テロ許すまじ」となるだろうし、フランス人がテロで悲しむのを見て「いや、お前らやってること考えろや」と思わなくもないし、しかし殺された個人単位で見れば「こんな一般市民が犠牲になるなんて」と感じ、その一方で空爆によって一般人に死者が出れば「だからそんな負の連鎖がダメなんだろ」と感じる。
情報を得られる範囲が広がり、一律の価値観を用いるのは難しくなってきた。
 

最後に

http://www.flickr.com/photos/17957252@N07/3748243343
photo by Bazstyle | Photography

こんな時に思想、宗教やナショナリズムなどの依るべきシステムがあれば思考を単純化できる。
正論と異論、善と悪、敵と味方、神と邪教。
無思想と言われる日本人だからこそ、ときにはニヒリズムに、ときには情緒的なことをのたまう。
 

「自分」という個は、自分の物差しでしか計れない上に物差しは一律ではない。
社会における命の価値と報道における価値と個人の観察範囲における関係での価値も異なる。
情報のレイヤー、発信者と受信者によっても価値は異なる。

かつて西部では、縛り首がエンターテイメントであったように時代によっても死の扱いは大きく違う。
道端に死体が転がっていない現代日本における死は果たしてどんなものか。 
 
だからなかなかめんどくさい。
ま、政治社会学の研究者で大学の教壇に立ってるひとには、こんなことも今さらだろうが。

無思想の発見 (ちくま新書)

*1:まあるいいのち/イルカ

*2:サケ上流へ移動手助け 一関・川崎で「よぶ会」

*3:広島電鉄、商業用地をイオンモールに売却 6万平方メートル :日本経済新聞

*4:長く流すことが命を尊重しているというわけではないが、日常に戻すことを「不謹慎だ」「自粛しろ」という人びとの圧力によるのだろう。どこかの段階で非日常を日常に織り込むしかないのだが明確な分水嶺はない