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時代の速度と狂気の閾値

ブログ 社会

p-shirokuma.hatenadiary.com
んー、文化や物流の発展をキ○ガイ沙汰というのであれば「是」なんでしょうが。
クマ先生はアマゾンの物流速度の速さに現代人が早さに慣れ過ぎ。
それこそ狂気の沙汰だということらしいのですが。

ちょっとタイトル煽り気味ですね。
さて。

 



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そろばん屋書店

三国志 (1) 桃園の誓い (希望コミックス (16))

昔は、京都の市内に住んでいたとはいえ、近所に小型の書店しかなかった。
8畳ほどの店内。
店主の視線を背中に感じつつラジオライフやその横のお色気系雑誌にちらちら視線を送ったりして。

繁華街の河原町三条まで自転車で行けば「そろばん屋書店」と言う名前の書店があった。
20畳くらいの薄暗い店内は、品揃えがいいから結構欲しい本も揃う。

しかし近くに大型のジュンク堂が出店してきて、品揃えの多さにそろばん屋は店をたたみ、バブル景気の土地高騰で売り抜けたんだそうで、今や跡地はパチンコ屋になってる。
そろばん屋は、本にビニールなんてしていないから土日になると立ち読み客で通路が埋まり、座り読みまでしているやつがいる。
中には「横山光輝の三国志を立ち読みで全60巻読破した」というアホもいましたが(潰れた一因はあいつだと噂もあった)。
 
 

電子書籍のぬくもり

小型書店の撤退→大型書店への移行→ネット書店へ
 
今この、後半「大型書店への移行→ネット書店へ」の過渡期にある。
クマ先生の「どこを狂気と感じるのか?」という閾値は定かではないけれども。

最近、電子書籍に関して言及するときに「本の温かみ」を挙げるひとがいるんだけれど、そういう意味で言えばパッケージされて売られている本は温かみが足りない。
なにせ昔は、そこら中の本が読み放題だったのにビニールをかけて客の手に触れられないようにしている。

あのころに書籍は「本」から「商品」になった。
ビニールがかかっている本を初めて見たときの違和感はハンパ無かった。

店員さんにお願いすれば中身を見ることもできるけど、めんどくさいので中身も読まず買う。
電子書籍を見て紙の本に温かみを感じる人たちの感覚も、昔の書店を愛するひとからすれば「お前らの言う温かみってなんだよ」になるかもしれない。
「紙の本の温かさの欠落」も、どこにスタンスを置くかによって全然変わってしまう。


文明や科学は何もかも便利にすべく発展をしている。
昔なら発売当日にコミックを手に入れるにも書店をはしごしたりしたけれど、今なら大型書店にいけばいいし、さらにアマゾン経由のネット通販で買えば手に入りづらい本だって手に入るようになった。

・小型書店:在庫がない、取り寄せ→数日~数週間
・大型書店:在庫が多い→即日、ただし店に行く必要がある
・ネット書店:在庫が多い→電子書籍ならすぐ、配送でも数日

 
速度の極小化を狂気と呼ぶのなら、ワンクリックまで極小化した電子書籍こそが最も狂気の産物。
無料で読める、一部冒頭だけの立ち読みが可能、物理的に存在しない書籍をデータとして「読む」ことができる。
もちろんロマンチシズムに立脚して考えれば温かみが足りない、これもまた「狂気」かもしれない。
 
 

シンギュラリティ

http://www.flickr.com/photos/35059235@N06/4405616339
photo by sjcockell

シンギュラリティとも言いますけれど、人間はインターネットを手にし情報レイヤーを社会の二重写しにした。
インターネットを走る情報の速度は早い。
それにつれて物理社会のレスポンスも引きずられることになる。


物流という意味なら、近所の三河屋さんとかリカーショップがやってたことをアマゾンが代わりになろうとしてるのが今回の案件。

配送レスポンスが短くなることに対し狂気を感じるのはおまそう。

ふたを開ければ、地元の業者がかつてやっていたことが大型店舗の普及によって淘汰され、またメタボリックした販売の雄が今度はかつてのやり方をなぞり、家庭の隅々まで配送のレスポンスを短くして触手を伸ばそうとしてるってことなんだろうと思う。


小型の電気店が大型店舗に食われ、潰れていく中、小型の電気屋は大型の電気屋の傘下に入ったり、あるいはメーカーのアンテナショップ化して生き残ろうとしてる。
たとえばスーパーパナソニックショップなんかもそういうモノのひとつ。panasonic.co.jp
パナソニックは、契約した街の電気屋を小型の支店として位置付け、修理対応などを行う業者を一から雇い入れることなく街の隅々までサービス対応できるようにしてる。
大型化は在庫の集中による品揃えには寄与するが、残念ながら細やかなケアには向かない。だからこそ共存できるようにそれぞれにうまみのあることをやって業態は生き残ろうとしてる。

狂気の都

アマゾンがリカーショップや地元密着型商店の代替えになれるかどうかってのは、こういう隅々までの個別ケアができるか否かって部分にあると思えて、今やインターネットという極小化したレスポンスのセカイをもう一つの現実として過ごしている今、配送に関しても極小化の流れは止まるわけもなく、しかしアマゾンを見て今さら「狂気を感じる」と言われても、地元のスーパーに電話したって即日配送してくれるわけで、その辺は首肯できない。
どちらにしろ抱えてる在庫次第なわけですし、在庫の縛りを越えるほどの技術革新があるわけじゃあない(拠点同士のネットワークで補完関係があったとしても)。

いずれはレプリケーターでも発明されて、必要なモノを家で作れるようになればそれこそ狂気を越えた何かしらの世界なのかもしれないけれど、単なる流通に関するパラダイムシフトをどのスタンスで見ているかってだけの気がしなくもない。

しかし、モノには程度ってものがあるでしょう? 個人においては「時は金なり」も悪くないかもしれませんが、全体のテンポとして「時は金なり」が徹底してしまった社会とは、どこか、時計の狂気を帯びているような気がしませんか? そんな風に思うのは私だけですかね? でも、江戸時代の人間どころか昭和時代の人間からみても、私達の暮らしのテンポはクレイジーにうつると思うんですよ、「あんたら、なんでそんなに急いで暮らしているんだ?」みたいに。

“井の中の蛙大海を知らず”というけれど。

牛丼屋で一旦値下げ競争を始めれば止まらないように、流通だって配送の短さを競えばその流れは止まらない。
それは狂気ではなく、サービスを競い合う資本主義社会であれば当然の話。
配送なら安さや速度、安心度、サービスの充実を謳う。
ネットによってさまざまな情報を容易に手に入れ比較することが可能になったせいで、モノとモノを比較し、流通の日数やサービスも比較される事になった。
観測範囲の狭い昔なら競争も知れたもの。
しかし観測範囲は広がり、比較され差別化され、競争が激しくなるにつれ流通も急速に短く、早くなりつつある。

即時対応な速度が常識となって、異常に早いことが当たり前になってしまう感覚の鈍化は、キ○ガイ沙汰だとクマ先生はのたまう。
しかし、


狂気というなら、ネットを手にした時点でとっくに狂ってる。

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