フィクションでディテールを描く意味と「リアルさ」の担保

※ただの駄文なのでおヒマならどうぞ


[ Acchan - Maeda Atsuko ] もらとりあむタマ子CM「冬バージョン」

ちょっとつらつら、しょーもない戯れ言を。

「もらとりあむタマ子」を観て改めて思うんだが、フィクションにおいて日常を描くのはとても難しい。
だが「日常なんてそのまま撮れば日常なんじゃね?」と考える人がいて、そういう人にはフィルムの中で日常が描かれても「当たり前の風景」としか感じないのだそうだ。
だったら楽なんだけどねぇ。



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フィクションと日常

単純に「日常」は見渡せばそこにあり、誰にでも比較できるからこそ難しい。
ごまかそうにもそこここにある現実と比べることができるから嘘の「日常」はすぐにバレる。

フィクションはフィルムとして切り取った時点で非日常。
BGMが鳴り、SEがあり、事件が起き、美形の主人公は右に左に活躍する。
そこに現実はない。

「もらとりあむタマ子」で描かれるのは、大学を卒業し就職活動もせず親のスネをかじりながら父親の元に身を寄せる女性のひたすら変わらない日常。
事件といえば父親に恋人ができたとか、タレントオーディションに応募しようと撮影した写真がバレたり。
そんな誰にでもあり得るような半径数メートルの日常を描くからこそ作中ではおそろしくディテールを詰め込んでいる。

こたつ、せんべい布団、色あせたペナント、石油ストーブが切れたら父親とじゃんけんして負けたほうが家の表に行って石油をタンクに入れ(おそ松さんでもやってたが)、ジップロックに野菜を詰めてレンジでチン、そばがらの枕、セクシーな金髪女性のカレンダー。
それら昭和を感じさせる(既視感のある)ひと昔前のアイテムのディテールが積み重なり、観客に対し劇中の「現実(リアル)」を担保する効果を持つ。

非日常と現実

徹底的に現実的な世界を排した「CUBE」という作品もある。
キューブ状の閉鎖空間に閉じ込められた男女が迷路をさまよい歩く話。
非現実的で無機質な世界の中、唯一痛みだけが執拗に描かれる。

焼け、ただれ、切れ、血を流し、死ぬ。
肉体の感じる痛み、苦しみが、異様な非日常の中で現実感を持つ。
非現実の中だからこそ執拗な痛みの描写に現実的な痛々しさを浮かび上がらせる効果がある。

情報量の多寡


先日、漫勉 花沢健吾の回でディテールを書き込むことに関し「日常を描くことで非日常との落差を表現したい」という発言があった。

浦沢「漫画の基本ルールとして『背景の中でキャラクターが浮かび上がるかどうか』って」
花沢「逆になじませたいと思っていますね」
浦沢「青木ヶ原の樹海があんなにうしろに(書き込まれて)あったら(キャラクターが)見づらいはずなんだけどっていう状態をこれは逆に『(わざと)やっているんじゃないかな』と」
花沢「浮き出ているということは主役感を出すためにライトを当てていたりとかそういうことになっちゃう。そうすると僕にとってのリアリティが減っていっちゃうんで。(背景に紛れてキャラクターが)見えないんだったら見えないでいい。そっちの方が僕にとってのリアリティーなんですよね」
花沢健吾 | 浦沢直樹の漫勉 | NHK

情報量の多い背景と浮かぶキャラ。
しかし花沢健吾の作品ではそんな情報量の多い背景にキャラクターが埋まってしまうこともある。
キャラクターは現実的な背景からあえて浮かばず、リアルさの情報の中に埋没する。

非日常を描くとき、対比として日常を描くことで落差〜異常であるという振幅が発生する。
世界に現実と地続きの“日常”が存在しない非日常ファンタジー世界ではなく、現実的な“日常”の延長線上にあり、現実とつながる非日常だからこそディテールを書き込み、情報量を増やす。

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フィクションの中の“リアル”にとって情報の多寡は重要で、大友克洋の描く情報量がメタボリズムを極める世界は非日常でありながら手触りのあるリアルさを感じさせるのも徹底した書き込みの情報量による。
「童夢」で描かれる崩壊するマンションや凹む壁も、徹底して書き込み情報量を増やすことでことで読者に重さや固さを伝える。

非日常を必要とする物語

しかしそんなリアルさを必要としないフィクション世界がある。
少女漫画において背景を書かないのは、描かれる作中世界の「リアルさ」に関して担保を必要としないからだろう。
精神世界と外部世界はつながっていて、時制もコマに縛られることはない。
独特の少女漫画文法と呼ばれるものは、現実世界に似た非日常で描かれるロマンスを描くことを主眼とするからこそ。

咲き乱れる花、あなたとわたしだけの世界。
描かれるのは、主人公の内観であり世界ではない。
日常を担保しない作中の現実世界は、ファンタジーに近しい。
 
 

“リアル”の正体

よく「リアル」とは何か?という話が出る。
実写でいうなら整然とした部屋よりも雑然とモノが散乱する部屋が描かれれば、そこにあるモノのディテールに対してリアルを感じたり、あるいは現実的な正確さの模倣(自衛隊を描くのに元自衛官が協力して実際の自衛隊を模倣するなど)にリアルさを感じたりするかもしれない。
漫画的なディテールの面から見れば「情報量の多寡」がまず存在し、情報量によって描かれた現実とそこからの非日常への振幅と導入こそが「リアル」さのキモだとも言えるかもしれない。
しかし結局のところ「リアルか否か」は観察者と対象との相対的な尺度によるのであって、江戸時代のリアルは現代の人間にとってはリアルではないし、北海道のリアルはトリニダードトバゴのリアルとイコールではない。

異世界に転生して~云々というのは、その時点でリアルさを放棄しているし、そこに読者が何かしらの「リアルさ」を感じたとすれば、それは“おまそう”ともいえるクオリア*1的な側面かもしれない。
が、この程度の記事でそこまで検証する気はない。

まぁ、そんなことを考えながらさっき仕事の帰り道iPhone5sでiPhoneSEをポチったんだが、現物も見ないで使ってしまう7万円というのは何のリアルさも伴わないマネーだなとしみじみ思った。

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*1:クオリア(英: qualia(複数形)、quale(単数形))とは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと、とりわけそれを構成する個々の質、感覚のことをいう。 日本語では感覚質(かんかくしつ)と訳される。クオリア - Wikipedia