読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

シンゴジラが58点な感性にウケる大味なエンタメ

映画

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

note.mu
シンゴジラを観て58点だったのだそうで。
別に金を払ってみた映画をどう感じようが自由だが、感想が公開されていたので読んでみた。

だったらどんな怪獣映画が100点なのか是非知りたいところだけれど、この方の感想を読んでいるといろいろと考えるところがある。
以下は、そんな58点の感想の感想。



【スポンサーリンク】



新本格・シンゴジラ

感想を読んでいて、いわゆる新本格第一世代のミステリに対して「人間が書けていない」という批判が起きたことがあった。
もともと人間の感情や関係性を前提にしたサスペンスに対して新本格ミステリは「何故殺したのか?(ホワイダニット)」よりも「どうやって殺したのか?(ハウダニット)」が重視されキャラクターを掘り下げることよりトリックの妙を楽しむことに重心があったがために、キャラクターの人間性は比較的希薄なパズラーになり、必然的にそういう批判は起きた。

まず主役の長谷川博己をはじめ竹野内豊など主要な登場人物のバックボーンや行動原理について作中でほぼ言及されないし、なによりも彼らの家族についてまったく語られていないのは問題なんじゃないかと思う。
彼らには親兄弟や恋人、家族はいないのだろうか?

映画において何を描き何を描かないか、は取捨選択されている。

EMOTION the Best 機動警察パトレイバー 劇場版 [DVD]
バンダイビジュアル (2009-10-27)
売り上げランキング: 2,991

たとえば押井守「パトレイバー」においてはそれぞれのキャラクターに役割があり、独身貴族の太田や隊長である後藤は過去もプライベートも描かれず、反対に進士は妻も子もあり映画では任務に赴く際 妻に止められるシーンも描かれる。

「GHOST IN THE SHELL」で、主人公 草薙素子のプライベートはほぼ描かれず(原作では描かれているが)「イノセンス」でバトーは犬と二人暮らしの日常が描かれる。

「相棒」を見れば、水谷豊演じる杉下右京は探偵役の記号であるからこそ人間性は希薄で「過去に結婚していた」という履歴以外の味付けは全て即物的なものに限られ、反対に寺脇康文演じる亀山薫は人間味あふれたキャラクターとして描かれることで両極端なキャラ別けをされていた。

キャラクターにおいて個人の深みを与える「日常の描写」というものは、たしかにキャラクターに対して厚みを与える。

しかし「シンゴジラ」において必要なのは個人の詳細ではなく、対策室としての、組織としての、政府としての対応。
そこに個人としての日常を描く必要が果たしてあるか否か。

これは前述した新本格ミステリが主眼として描きたい「ミステリとしての面白さ」に対しての「人間性が希薄だ」という批判に近しい感覚を感じる。

あれだけ登場人物がいるのに、家族のために仕事を捨てる人間や怖くなって我先にと逃げる人間をなぜ登場させないのかも分からない。
ゴジラに対する恐れや怒り、失ったものに対する悲しみなど、人間らしい感情が完全に欠如している。

この映画は、一般市民の避難をほとんど描かない。
もちろんそういったものを描くのは容易だろうが、あえて描かないからこそドライに感じるのは当然だろう。

だったら「BRAVE HEARTS海猿」のように人間の背景や感情をがっつり書き込めば彼の考えるような「人間の描かれた名作」になるのかも知れない。
だったら主演は、伊藤英明にすればよかったんじゃなかろうか。
あるいは多摩川の防衛ラインを破られたとき國村隼が作戦卓を叩いて「なんてこった!(viaタシロ・タツミ)」とでも叫べば「人間らしい感情」なのかもしれない。

とまれピエール瀧が、防衛戦を維持できず人間らしい叫びを抑制し「市民の避難誘導を」と仕事に徹するセリフこそあの映画で「キャラクターらの一体どこを切り取って描いているか」を示していると思うが。

政府として、仕事として事にあたるからこそ感情を抑制する。
立川に本部を移したとき、長谷川博己が感情を抑制できず部下に当たるシーンがある。
つまり常に感情を抑制し冷静に事案に向き合っているということであり、感情のない人間ではない保険としてあのシーンは機能してる。

「シンゴジラ」はゴジラという超級の鳥獣対策事案に対して政府が仕事として、あるいは仕事を超えた日本政府としての対策を描いた作品であり、そこに一個人の描写などは必要ないと感じる。
もっと言ってしまえば石原さとみが大統領を目指していようが家名に傷をつけようが、あれこそ不要な「キャラクターの人間性」であり、ただ政府としての国同士の政治やパワーゲームより個人的・人間的な思い入れが優先される部分もある、という意味性に加担している。
 
感情移入出来ないという意味で言うなら、あの映画は感情移入して欲しいと思っていない。
新本格ミステリは作品としてそもそも読者に感情移入を求めていない。
あらゆる作品は感情移入できなければならない、などというのであれば大いなる勘違いであり、そんなことを前提としない作品は数多く存在する。

かと思えば「大統領になりたい」だの「総理になりたい」「幹事長になりたい」だの政治的野心をのぞかせる台詞はポンポン出てくるから、

ポンポン出てくるが、そのセリフを言うキャラクターは厳選されている。

まず関西にいてゴジラの被害を逃れた泉(松尾諭)、そしてアメリカ側の石原さとみ。
このふたりが政治的な、この事件の先のことを語るのは当然のことで、この物語の中でそういう役割を与えられて存在してる。
そして主人公 長谷川博己は現場主義であり、それに対し竹野内豊はどんな事案であれ利用し出世に利用しようとしている。
これこそ「仕事に向き合いながらも除く人間性」のはずなんだが、

「こいつら私利私慾で行動してない?本気で人のために戦ってないよね?」ってどうしても思ってしまう。

だったらサラリーマンはプレゼン資料を作るとき、自分お出世のことを考えているのは不純であって、100%会社のためでなければならないということか。
人間性を覗かせず抑制した状態で対処するのを描くことに対し「人間性がない」といい、出世欲や将来を語るキャラが居れば「私利私欲だ」というのはダブスタなんだが、わかってるだろうか??

カタルシスを生むはずのヤシオリ作戦が激烈に微妙

まず最初に言っておきたいのは「首都圏で起こった重大な問題を核攻撃で一気に解決しようとする派とそれを防ぐために独自の対案で解決しようと奔走する主人公」みたいな話って、これまで色んな映画で腐るほど観てきたということ。
(中略)
その為にはまず、作戦の内容や手順、問題点などを分かりやすく観客に提示して、作戦の実行中も状況を逐一説明していく必要があるけど、ヤシオリ作戦は正直そのあたりがよく分からない。

よくわからないんだが、そもそもこの映画はゴジラだが、初代ゴジラは航空機の攻撃により深海に退避し、後半突然作られるオキシジェンデストロイヤーによって倒された。

84年版では、スーパーXも殺獣メーサー車も効かず、電波に引き寄せられ三原山の火口に誘導、仕掛けられた爆弾によって火口へ落下し倒される。

そしてゴジラファイナルウォーズでは自衛隊秘蔵の新・轟天号によりエネルギーチャージされたゴジラがキングギドラの尻尾を持って振り回し……。

とりあえず通常火器が効かないので特殊な凝固剤を使ってゴジラを凍結をさせる作戦であることは分かるとして、実際にその凝固剤は、どうやって、誰が、どんなツールを使って注入するのか?注入までのプロセスは?作戦実行中に起こりそうな障害は?…みたいな計画の詳細が明らかにならないまま実行される。
作中で語られたヤシオリ作戦の問題点は、「凝固剤の生産が核攻撃実行までに間に合わないかも?」くらいなもので、あとはエゲつないほどご都合的にポンポンと作戦は進み、何の感動もなく成功してしまうのだ。

さんざ「経口投与による凝固剤の」とセリフで語られているんだから、あとはどうやって経口投与するのか?という部分になるわけで、そこで自衛隊の特殊車両が出てくるところこそが見せ場だろう。
そもそも怪獣映画に対して過度なカタルシスを求めた結果、正義の怪獣と悪の怪獣のプロレスという図式が生まれ、それを現代に置き換えてエンタメに昇華したのが金子修介の平成ガメラシリーズであり(金子修介はゴジラを撮りたかったらしいという話も当時あったが)、それに失敗したのが「ゴジラファイナルウォーズ」

しかし今回のゴジラで作戦を担うのは、あくまでも個ではなく集団。
だからこそ無数の無人機が出発し、多くの列車が突撃を敢行し、自衛隊は多くの犠牲を払いながら特殊車両で近づき経口投与を行う。
大艦巨砲主義的な「自衛隊の秘密兵器」は極端にリアリティに欠け、どうしてもチープになりがちなために、のっぺりした巨大大福スーパーXや新・轟天号が出てきた時点でタミヤの影がちらついて仕方がない。
感動も何も、ゴジラの最後は基本的に淡々としたものが多く、真正面から戦って勝てる相手ではないからこそ休眠中や隙を狙うしかない。

八極拳の達人 李書文も、戦いでは無双だったのに最後は毒を盛られて死んだ。

たまたまゴジラが自分よりでかいビル付近、しかも線路の上で寝てくれていて、爆破したビルの下敷きになる時、大型車両が何台もすんなり駐車できるスペース側に顔をむけて2回(!)も倒れてくれたからよかったものの、そうでなければ日本だけでなく、世界は完全に終わっていた

いや、あそこにゴジラがいたからこその作戦であって、そうでなければ地下鉄を爆破するだのあったでしょうに。
というかご都合主義も何もそうでなければトラックに火薬を載せて突っ込ませても同じ。
だったら道路があれば出来たろう。
さらに言うなら東京に高層ビルは山ほどあるんだから、わざわざないところでところで止まる意味が(映画的に)わからないんですが。
なんか「ご都合主義」っていうのはそういうことではないんだが批判に使われがちな、お手軽バズワードで、あの場合「ゴジラを囲む環境を考えたうえで作戦を立案している」と捉えれば違和感なく見れるし、なんでもかんでもご都合主義と言えば批判できるのであれば、そもそもゴジラが日本にやってきて危機に陥る事自体「ご都合主義」なんだし博士が恨んでるならアメリカに行かせりゃよかった話。でもそれだと映画にならないんで。

ていうか、「ゴジラに電車ぶつけて倒れた瞬間に寄ってたかって凝固剤飲ませる作戦ってなんだよ!あれだけ頑張った自衛隊がバカみたいじゃないか!」って誰も思わないのだろうか?
ビルの瓦礫の下で凝固剤を注入されるシーンは、布団から顔をだしたゴジラがストローでジュース飲んでるのかと思った。

いや、米軍のミサイルが海側からビルの倒壊を狙い発射されているんだから倒れる方向は決まっていて、だからこそ待ち構えていたんでしょう?
皮膚は硬すぎて貫通できず、それができるなら倒せるんだし必然的に経口投与、ってのがあの作戦でしょう。
力技で無理やり核を撃ち込もうとするアメリカ(及び諸外国)と凍結させ対処しようとする日本。
この対処の差がでている面白い作戦だと思いましたけどね。

作戦がピンチに陥ればご都合主義じゃなく、スムースに行けばご都合主義……。


ちなみに石原さとみに関しては、エセ外国人こそが怪獣映画のキモ。
「片言の日本語を話す外人役が出てくると冷めるかもなー」と思ってたら代わりに石原さとみが出てきた。
今回はあの変な役をあえてやってんだろうなー、と。

というか石原さとみがいないとあの映画重すぎるんですよね。
石原さとみの存在が、あの映画をエンタメ寄りに機能させてる。
もっとモデルさんとかいただろうにあえてキャスティングしてるのはもちろん意図的なとこ。

ウケるエンターテイメント

つまり以上のような「58点と感じる人の感性にウケるゴジラ」を考えると

・登場人物の家族など人間性を描く
・感情的に叫ぶ主人公、憤り、汗をかく
・ともかく感情移入
・逃げ惑う民衆をもっと描け
・ゴジラの最後にはカタルシスのある派手な作戦
・ご都合主義と感じさせないようピンチに陥るシーンを挟む

だからこういう感性を持つひとに「BRAVE HEARTS 海猿」みたいなコテコテで暑苦しいエンタメ映画がウケるのがよくわかる。
人間性がー、キャラクターがー、感情移入がー、カタルシスがー。

「アルマゲドン」みたくリヴ・タイラーが父親の自己犠牲を見つめて涙、みたいな。
そこへ流れるスティーヴン・タイラーの「どんとわなくろーずまいあいず~♪」
……はいはい。

ハリウッド的な映画作りっていう大味なエンタメは、概ねこういう明確なカタルシスやキャラクターをぶっこんで出来上がってる。
誰にでも非常にわかりやすい。
そういうハリウッド謹製な濃い味のエンタメに慣れてしまうと薄味で旨味のある和製怪獣映画に対して違和感を感じるんだろう、ってのがよく分かる感想だった。

一見さんや子供は「ドラゴンタトゥーの女」も「SAW」も楽しめないと思うし、映画は必ず一見さんや子供が楽しめなければいけないのか。
さらに言うなら怪獣映画は子供が楽しめなければならないという決まりがあるのか。
だとすれば初代ゴジラはこの人の感性だと駄作って言うことなのかしら?
お子様は楽しめない「マタンゴ」も駄作でいいのか??

POVの「クローバーフィールド」もお子様向けではないし、韓国謹製怪獣映画「グエムル」も子供向けではないだろうよ(あれは暗喩として殺人犯とその復讐をする親の話だと思ってる)。
映画はその作品によって観客を選ぶことだってある。
最近は「アニメは子供向けだ」と言われると違和感を感じる人は多いのに「怪獣映画は子供向けだ」ということにこのひとは違和感を感じないらしい。

エヴァありきだとかゴジラありきなのは初見ではない自分だから思うだけで、では初見の人がどう思うかは別の話だと思うんだが。

こんな感じです。

BRAVE HEARTS 海猿 スタンダード・エディション [DVD]
ポニーキャニオン (2013-01-18)
売り上げランキング: 1,201