落語を独りで演じる理由とあたま山

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落語を複数人で演じるとなると、こういう人件費だとか、演者間、あるいは演者と脚本の作り手との間のコミュニケーションのコストが増えるのである。

つまり、落語家とは監督と脚本と主演を全て兼ねた一人クリエイターなのである。このうち一部を外注していくと、それに伴って種々のコストが増えてくるのは当然である。手間も増えるわけだ。
(中略)
結局、落語というのは、作り手の手間を抑えてサボるための仕組みに過ぎないのではないか、と筆者には思えてならない。

この弁護士さん、ある界隈ではお馴染みの方。
毎度毎度お笑いの批判がお得意のようでその割に理論武装が足りませんが、社会は肩書きですので残念ながら原稿依頼が来るようにできてるんですから、ネットメディアの質は痴れたものでして。



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漫才と落語

落語は座布団に座り、一人で全ての役を演じる。さらに言えば小道具も持たず扇子一本で箸からキセル、匕首などさまざまなモノを想起させる。
落語家の演技や扇子はあくまでも観客の想像力を補うための道しるべでしかない。

たとえば「まんじゅうこわい」という話のサゲは「今度はお茶が怖い」

男は実はまんじゅうが好きだが、怖がったふりをしていると周りの連中が面白がってまんじゅうを投げてくる。だから怖がって見せまんじゅうをタダでせしめる。
さんざ投げつけられたまんじゅうを食べ、男は喉が渇いたから「今度はお茶が怖い」と言い物語りは終わる。
しかし落語ではこう言った解説がない。
観客は自分の中で解決する必要がある。


笑いは「緊張と緩和」
ボケが常識と違うことを言い観客に緊張を生み、ツッコミが常識的なことを言い観客に緩和を生む。
ツッコミはボケと観客の間に立つ通訳。

しかし落語にはこのツッコミ相当の存在が基本ない。
もちろんネタによっては長屋の老人や奥さんが出てきてはっつぁんクマさんの面白おかしい行動を諌めたりもする。
しかし前述のまんじゅうこわいのようなサゲは、ボケが最後に来る。
だから観客は「今度はお茶が怖い」を自己解決して理解する必要がある。

観客の協力と欠落を補うための想像力、観客と演者の共犯関係。
落語においてこの関係性が、観客に対しより丁寧な漫才と大きく異なる。

頭山

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※あたま山のイラスト
頭山というネタがある。

あるときサクランボを種ごと食べた男の頭から桜の木が生えてくる。
人が集まり桜の木を囲んで花見を始め男の頭を「頭山」と呼ぶ。
騒ぐ花見客に男は桜の木を引き抜く。
その抜けた穴に雨が降り池ができ……。

アニメにもなった有名なネタだが、このシュールな世界観は、道具も書割も存在しない落語だからこそできる。
落語家が語り、観客の脳の中に空想の「頭山」が作られる。
もしあたま山を複数の人間で舞台を作って演じたらどうか?
舞台上、視覚的に作られたモノ以上のあたま山は観客の頭の中には作られない。結果として舞台が観客の想像力を縛る。

ラースフォン・トリヤー監督「ドッグヴィル」という作品がある。
これはセットを置かず役者は地面に書かれた建物の線に従い、そこに建物があるかのように演じる。
そこに建物がないから本来なら見えない壁の向こうが全て見える。隠されている悪意や秘密も観客には透けて見える。
何かが存在するから成立するのではなく、ないからこそ成立することもある。


落語で複数の人間を演じる意味は、その役を役者に縛られないことにある。

フーテンの寅さんといえば渥美清の顔を思い浮かべるし、ホームズならジェレミーブレッドや最近ならベネディクトカンバーバッチを連想する人も多い。
しかし時そばにしろ、まんじゅうこわいにしろ、地獄八景亡者戯にしろ、演じる落語家によってさまざまなバリエーションの役が無数に生み出され、落語家によってはサゲが異なることもある。
雲田はるこ「昭和元禄落語心中」に登場する師匠八雲の落語には妖艶でおどろおどろしい雰囲気があるが、同じ噺をその弟子の与太郎が演じれば少し間の抜けたこっけいな噺に変わる。この演者の違いによって変化が産まれネタは千変万化する。
だからこそ古来より繰り返し演じられてきた同じ噺であっても面白く、新味がある。

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では、なぜ落語は一人で演じ、道具も使わないのか。

たとえば映画であればカメラが映し出す枠だけが限界だが、落語の舞台には書き割りもなければ小道具もない。
代わりに落語家の話術と物語世界がある。

映画で戦争を描くなら戦車を準備し、戦場を準備し、兵士を準備しなければならないが、落語であれば扇子一本が突撃銃になりミサイルになり、舞台の上が作戦司令室にも最前線の土塁にもなる。

何もないからこそ縛られることがない。
そこに想像力を働かせるためにあえて何もない。
どれだけシュールでクレイジーな展開をする現実離れした世界でも視覚的に再現する必要はない。

それが落語の舞台。


落語は基本的に口伝だが口伝だからこそネタは変化する。変化を拒否するのであれば聖書のようなアカシックレコードを作ればいい。台本のようにセリフや身振り手振りやタイミング、呼吸を記せばいい。誰もが読めば落語を学べる原典。
しかし書かれた原点があれば、そこに限界が発生してしまう。
だからこそ口伝により変化を容認する。ネタが変化しても構わない。
こういった部分にも落語という演芸の自由さが見える。

親切なのか甘いのか

伝統芸能だとか、話芸だ、とかいう主張もあろうが、それと観客から見ての「面白さ」とは無関係だ。それとも、落語にはいわゆる「面白さ」「わかりやすさ」は求めてはいないのだろうか。そもそも落語は今で言えばバラエティ番組やお笑いライブであり、大衆芸能である。そんなはずはあるまい。

「お笑いは、わかりやすくなければならないのだ」
というのはどこかで決まったことなのか。
観客は想像力を放棄し、ていねいに説明するようなお笑いがレベルが高いとでも言うのか。

今のバラエティ番組はテロップが表示され「ここで笑う」というタイミングまで説明が必要になってしまった。
本来であれば笑いたいところで笑い、どこで笑うかは観客の理解と判断による。
そしてこういう「バラエティ知ってるぜ俺は」という雰囲気で見当はずれの記事を次々書くこういう方も生まれてしまう。

こういう記事って「漫画より活字だけの小説は読者に不親切だ」「小説は漫画と違い絵を描くのが大変だから手を抜いている」と言ってるのと大差ないんですが。


「高橋維新」という弁護士さんが過去にどういう炎上をしたかは、検索すれば山ほど出てきますのでみなさまそれぞれ調べていただくとしまして、これだけ書いても理解できるかどうか。
とりあえず落語入門を読み直してから落語を語ってはどうでしょうか。

おあとがよろしいようで。

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