鏡を挟んだネット恋愛の地獄感

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「いのち短し恋せよ少女~♪」
と歌ったのが誰だか知らないが、ネットというところは恋に落ちやすい。
これはネットの上が主に文字からなる空間だからなのだが……という話を以下に噛み砕いて書いてみる。

まぁ、なにやらそういったことを時折見かけるんですよ、えぇ……ぐへぇ。



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文字とコミュニケーション

言葉は、人間の意識からアウトプットされ、文字になった時点で記号として以外のデータがブランクになる。

仮に「赤」という言葉を書き込むとき、書き手の中では「リンゴのような赤」をイメージしているとする。
しかし「赤」という文字からは、書き込まれた時点で「リンゴのよう」という情報が欠落する。*1

書き込まれた「赤」という文字には、本来の文字が持つ表意文字としての意味だけがある。
それ以外の情報はそこにはない。

そこで文字をどう受け取るかは受け手により変化する。
「トナカイの鼻のような」あるいは「赤ん坊の頬のような」「血のような」「特に具体的イメージを持たず」
「赤」という文字を認識し受動的にどのような受け取り方をするかはわからないし完全に一致することはない*2

もちろん書き手は、誘導を行うために言葉を足すがそれでも絶対的に情報は足りない。

対話のレッスン 日本人のためのコミュニケーション術 (講談社学術文庫)

普段対面で行う話し言葉(音声言語)によるコミュニケーションでは表情や仕草、外観や関係性、社会性、声質やトーン、気分や時間、環境など様々な要素が影響を与え、言葉に対して情報を付与する。
だからこそ対面での音声言語によるコミュニケーションの場合、少ない言葉でも相手に伝わりやすい。
ある種、言語コミュニケーションによって社会が成立したのは人と人が顔を合わせ言葉をかわしたから、と言えなくもない。


繰り返すが、そんな情報の少ない書き言葉(文字)の面白さは受け手側の捉え方にある。

前述したように同じ言葉をどう読み取るかは読み手により異なる。
それは誰かが書いたものに対して無意識にバイアスをかけてしまうことになる。

ここが興味深い。

つまり同じ言葉でも、好印象な人の言葉は良いように受け取りやすい。
嫌いな人の言葉は悪く感じやすい。
ニワトリが先かタマゴが先かではないが、印象が文字の受け取り方にバイアスを掛けバイアスによって印象が決まる。

私たちは、同じ日本語を話しているつもりでも、それぞれ違う言葉を話しているのだから
わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)

もちろん対面でも同じことが言えるが、ネットなどの文字コミュニケーションではバイアスがより一層強い。
これは文字が文字でしかなく、読み手は鏡のように自分自身の脳内に文字とその書き手を再現するからだといえる。
……要は文字コミュニケーションは鏡を挟んで行う伝言ゲームのようなもの。
読み取った文字の先にいるのは送り手ではなく、受け手が思い描く自身の中の影。

アイドルの歌を聞き声だけで想像する「自分の中のアイドル」は現実の「アイドルを演じるひと」とは異なる。
また「アイドル自身が思わせたいアイドル像」とファンが受け取る「アイドル像」は一致しない。
両者の間には「自分の中の鏡」が存在する。


そしてそんなバイアスの結果、恋愛が発生しやすい。
特にインターネットという文字空間では「鏡」が乱立している。
鏡であり影。
争いのもとであり、変節な思想のもとであり。

かくて鏡を挟んでネット恋愛は誕生する。
欠落した情報から作り上げた理想の相手。
そりゃあ恋に落ちやすい。

印象は正しくない

ネット上では、このような抑揚や表情に頼っているニュアンスは、ほとんどかき消されてしまう。通常の会話では親近感を示す役割を果たしている「なんか」「ま」「ね」と言った語句が、ここでは誤解の元となる。こういった語句は、動詞や名詞と違って話者の意図を直接的に表すものなので、それが意図通りに伝わらない場合には大変厄介なことになる
対話のレッスン 日本人のためのコミュニケーション術 (講談社学術文庫)

音も匂いも姿も形も、存在も実存もなく、ただそこにある言葉だけで相手を捉え……つまりアウトプットされた言語だけで相手を判断することになる。
しかし人間がアウトプットする言葉は意識や思考の限られたごく一部でしかない。

よく「ネットでは悪そうだが会ってみればいい人」などという話を目にするが、文字から判断されるのはあくまで大幅にバイアスがかかり歪んだごく少ない情報でしか無い。
アウトプットされた文字から判断した「(自分の中の)Aさん」と実際に会うことで情報が補填された「Aさん」
人間はアウトプットされた文字ではなく、相手と対面し認識した上で相手の人格を判断する。

「人を殺すようなひとには見えなかった」
などというが人を殺すような外観をしているから人を殺すわけではないし、いい人に見えようが、会っていい人だろうが、悪人はいくらでもいる。しかし人間は「実際に会った印象」に優先的な順位をつける。

文字によるアウトプットより実際に会った情報量のほうが多いからそれは自然なことだが。
だからといって情報が多いことは正しいわけではないが、人間は認識を誤りやすい。

地獄感

ただ「どの判断が正しいか?」ではない。
どの判断も正しく、そして間違っている。
人間関係と認識において正しさの定義はとても難しい。

どれだけ病んだ人物であろうが、その間に健全な関係を築くことができればそれはその本人にとっては「正しい」だろう。
どれだけ健全の人物だろうが、その間に不健全な関係しか築けなければその本人にとっては「間違い」だろう。

元々恋愛なんて言うものは感情が優先でバイアスを掛け理性的な判断を歪めてしまう。
それが日常を共に送り、感情が摩耗し、理性が顔を出し「性格の不一致」などと言い出し離婚へと至るひとは枚挙に暇がない。
遺伝子がそれを(๑•̀ㅂ•́)و✧としているのだからしかたない。
人間は遺伝子に隷属する器。

誤りと後悔を積み重ね人は反映してきた。完全に等価なコミュニケーションを行うことができれば人は違う形をしていたろう。
ヤハウェが天より降り人と人の相通じる言葉を乱してから、わかりあえることはなくなった(とかなんとか)。


まぁ、誰と誰がくっつこうが知ったことではない。
未熟な思考と欠落した情報と、感情によるバイアスで歪んだ判断の果てにどんな展開があるのか。
もともと誤解から恋は始まり、誤解に気づいて終わるもの。


はてななんて、どこまでも地獄感しかない。

*1:だから書き手は能動的に「リンゴのよう」と付属する情報も言語化して書き足すのだが、すべての文字に対してこれを行うととても冗長になる上に今度は「リンゴ」についてのどのようなリンゴなのかと言う詳細情報も必要になる。ここでは考えない

*2:感覚質、クオリア