魚が死ぬのは可哀想だと感じる「死」が隠された近代社会

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スケートリンクの氷に魚を埋め込んだところ「可愛そう」「残酷」なとの批判が集まって中止になったのだそうで。
今のご時世、こんなことしたら批判受けるのは当然だろうにそれを想定できなかった担当の発想の貧困さがなんとも。



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で、それはともかくこの「残酷」「可愛そう」という反応は興味深い。

たとえば居酒屋に行くと水槽を泳ぐ魚がいたりする。
客は好きな魚を網で掬い、とれたてを刺身にしてくれる、というサービス。
しかしそういう店で「これから失われる命を泳がせておくなんて残酷だ」「生きている魚を展示することで魚の命を奪う片棒を担がせるのか?」などという批判は出ない。

あるいは築地市場で「魚の死骸」という意識はしない。
スーパーや肉屋で売られている屍肉を「死体」「残酷」「可愛そう」とは感じない。

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つまり食用としている魚からは、感覚的に「死」が切り離されている。
死は姿形から生が失われた状態だから、生き姿を解体すればそこから「死」は切り離すことができる。
牛が死に横たわっていればそれは「死」だが、死んだ牛を吊るし、内臓を抜き、骨に沿って肉片にバラし、適度に切り分け、鉄板の上で香ばしく焼けばステーキになる。
ステーキと死は繋がっているはずだが、そこに感覚的に失われる死はない。
屠殺は放送に乗せられないが、鉄板で焼かれるステーキは王様のブランチのグルメコーナーでも放送できる。

魚は牛や馬より感覚的に共感性が遠いので屠殺が隠されることはない。
最近では捌かれた切り身の魚が売られているから「死」がさらに遠くなっている。

人間の社会において、生物である人間にとって死は身近なものだったが社会の近代化に従って「死」という穢れは隠されるようになった。

本来であればそんな穢れを受け止めるために宗教が存在したが、穢れ自体が隠されれば宗教の必要もなくなる。
人間は穢れを隠し、現実だけを見て生きていけばいい。

人死には隠され、焼却される。
屠殺は隠され、肉片として売られる。
魚は捌かれ、切り身として売られる。
道端に野ざらしの死体が転がることはないし、牛や豚の肉を食べるのに頭に杭を打ち込む必要はなく、魚を食べるのに跳ね回る魚を押さえつけてエラのところから包丁を突っ込む必要はない。
だから死んだ魚はグロテスクだし、死んだ魚を展示するなんて悪趣味。
残酷だし、可愛そうだと感じる。

ピン打ちされた標本の蝶を見て翅の模様を美しいと感じるか、気持ち悪いと感じるか。

氷の中の魚は死が剥ぎ取られていなかった。

「可哀想」というのは感情移入するからこそ発生する感情。身近に死がないから想像力に欠け、短絡的な思考として純粋な「死」という事情に対して「可哀想」という感情が発露する。

穢れから遠く、清潔に滅菌された社会から死は遠い。