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信仰「心」のないまま消費されるクリスマス

bakazee.hatenablog.com
記事の主眼である、宗教批判の是非についてはさておき、気になったのがこの

それにこの日本型の宗教批判で僕が一番嫌なことは「みんな自分が無宗教だと思っている」という点です。

僕はほとんどの日本人にも信仰心があると考えます。

その無自覚な信仰を「神秘主義的信仰」と勝手に呼んでいます。

自分は無宗教だという人にはその通りの行動をして欲しいものです。

ここの部分。

たとえばクリスマスは、キリスト教的なイベント。
だが、子供にサンタからのプレゼントを渡し、あるいは恋人にプレゼントを贈る行為は果たして宗教的な受容が伴っているだろうか?
キリストの生誕を祝いながら恋人にプレゼントを手渡しホテルに誘う?

日本人の多くは、宗教的な事象も非宗教的に消費してしまっている。
それが良いか悪いかに関して、ここでは問わないが。
なのに「信仰心がある」と言われてしまうと、やはりモヤる。



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聖なる夜

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仮にクリスマスにデートをし、プレゼントを贈ったとして、そのあとで踏み絵を強要されてもそれほど抵抗なく行える*1
クリスマスは、キリストに対する信仰を伴い行っているわけではない。

雑誌でプレゼントの特集が編まれ、セールが行われ、彼女がクリスマスのデートを望むからクリスマスを祝う。
キリストやヨハネに対する信仰がなくても子供が宇宙戦隊キュウレンジャーのおもちゃを欲しがっていれば父親は買って帰るだろう。

クリスマスという行事、概念を知識として受容はしていても、そこに無自覚でも信仰は伴っていない。
心と知識は異なる。

信仰とは心であり、宗教的な行いを知識として受容するとき信仰の心が伴うとは限らない。
特にクリスマスなどは、消費社会においてその原義をはぎ取られてしまった。

さらにクリスマスを考えるうえで、アメリカと日本の関係を考えないわけにはいかない。

クリスマスといえば堀井憲一郎氏。
日本の歴史とクリスマスを比較した連載がある。

そこから引用。
まずは、明治時代。

日本へのクリスマスの定着は明治の末年である。年中行事のひとつとして、少なくとも東京都市部においては、明治末年にはクリスマス騒ぎは定着していた。

そのへんは歴史的事実として、みなの記憶に留めておいてもらいたい。

ロシアに戦争に勝ってから、日本流クリスマス馬鹿騒ぎは日本に定着していったのだ。
クリスマスはこうして「日本化」していった 〜明治末の脱キリスト(堀井 憲一郎) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

日露戦争に勝ち日本でもクリスマスが盛り上がる。
しかし二次大戦に突入、アメリカが参戦してアメリカ文化的なクリスマスも否定される。
そして終戦。
終戦からしばらくしてクリスマスが徐々に復活する。

クリスマスは、どうでもいい行事である。

明治以降、そういうポジジョンにある。クリスマスはぜったいに真剣に執り行わない、扱うときはおもいっきりふざける、それが前提となっている祝祭である。
(中略)
1930年代はまだ主権国家だったため、日本はヨーロッパ諸国をかなり意識していた。具体的には、イギリスとドイツのクリスマスをいつも気にしていた。それに加えてアメリカも、という感じである。歴史あるヨーロッパ諸国を意識しているぶん、戦前には少し上品さがあった。

しかし1950年代のクリスマスは、すべてアメリカ一辺倒である。連合国支配とはいえ、事実上ほぼアメリカ軍による占領が続いていたのだから、そうならざるを得ない。
(中略)
バカ騒ぎ批判は、アメリカ支配に対する反発であり、アメリカ文化に追従している自国民に対する非難であった。

戦後のクリスマス騒ぎは、見ようによっては、アメリカへの阿諛に見える。
戦後日本を覆いつくした無意識の「言論統制」〜語られずに消えた記憶(堀井 憲一郎) | 現代ビジネス | 講談社(4/4)

日本においてクリスマスが宗教的な行いでないのは当然のこと。
宗教的な土台がない日本に、クリスマスという行事だけが持ち込まれた。
現代に続く地続きのクリスマスは戦後の復興とGHQによる統治の時代から続く。
そこに、そもそものキリストの生誕を日本人が祝うという道理がない。

元々、持ち込まれたクリスマスは資本主義と混ざり合い、アメリカの地でコカコーラはサンタクロースに赤い衣装を着せ、プレゼントを配らせることになったアメリカ風のクリスマス。
ミサに行かなくても、賛美歌を歌わなくても、ケーキを囲んでシャンパンを飲んでいれば成立するクリスマスは、そもそも信仰に基づかない形式だけのなんちゃってクリスマスというコンテンツ。

そして高度経済成長の先、バブルの時代にカップルへの売り込みを行った結果、現在も見られる日本流のクリスマスが完成した。
日本文化の洗礼を受け変化した否宗教的資本主義クリスマス。
だからこそ日本のクリスマスは、七面鳥ではなくケンタッキーのパーティーバーレルで充分に足りる。

行事に信仰は追従しない

そもそも宗教的行いとは、宗教への信仰がある場所や集団で、その宗教の信者によって行われるからこそ行事に意味が付随する。
行事が先行し、信仰が付随するわけではない。
クリスマスを祝うから信仰心が生まれるわけではない。

信仰から切り離され、行事だけが輸入されてしまい、そこに
「それは宗教的行事だ」
「信仰心がないなら祝うな」
などといわれても、あとからでは気持ちが伴わない。

何十年も前から意味が形骸化したクリスマスは行われているが、そこに「信仰心」を求めるのは、果たしてどの時点での原理なのだろうか?
アメリカの資本主義で改ざんされる前なのか、あとなのか、日本に持ち込まれる前のかたちか、後のかたちか。
キリストの誕生日になる前か、サンタクロースが登場する前なのか。
どの時点でのクリスマスが宗教的に正しいクリスマスなのか???

盛り上がりを見せつつあるハロウィンも、元はといえば、古代ケルト人の行事が起源といわれ、アメリカが移民を受け入れた際大陸に伝えられ、徐々に全米に広まったのだという(当然、反発や批判もあったらしい)。
アメリカですら疑問を持ったうえで受容されている、そんなハロウィンを、さらに日本で取り込んだものだから、とっくの昔に原義はなく形骸化し、宗教的どころか行為の意味すら失われ、単に「コスプレをして渋谷のスクランブル交差点で騒ぐ日」と化して受け入れられた。

自分は無宗教だという人にはその通りの行動をして欲しいものです。

簡単なところでは葬式でお坊さんを呼ばない。

結婚式は教会でやらない。神に誓わない。

クリスマスやその他全ての宗教行事をやらない。
宗教批判は無意味 - 筏blog

信じていないならそれを行うな。
信じているひとだけ行う資格がある。

たしかに一面的には正しいが、結婚式や葬式は信仰から切り離され、形式と化している側面が強い。
資本主義の日本において、もはや葬式や結婚式やクリスマスなどの催事は社会的には産業であり、消費するための概念。
そこに宗教的意味合いは薄い。
神前結婚式でも仏前結婚式でも、そこに神か仏かという信仰の対象はなく、文金高島田かウェディングドレスのどちらを着るかの差でしかない。
それとも信仰心は、必ず必要だろうか?
必要なのは新郎?新婦?親戚?家族?友人?誰の信仰心を元に決めれば良いだろう?
原理原則を守るのであれば、信仰がなければ親兄弟親類縁者でも参加してはいけないとか?

古代ケルト人の行事をアメリカ人が真似して、それを日本でやって、そこに信仰心は必要だろうか?
もしそれならハロウィンは、日本に持ち込まれる前にアウトだろうし、行えるのはイギリスやスコットランドの直系の子孫だけだろう。
信仰がなければならないなら、種族や血族も問われるのだろうか?
それともハロウィンは、全体的にフワッとしてるからセーフとか???

どれも宗教や信仰がない、ハレの行事として受け入れられた洋風のお祭り。
それは間違いなんだろうか?

原理主義

神道の場合には、特定の開祖をもたず、教義や経典が明確ではない「自然宗教」であるのに対して、仏教は、釈迦という特定の開祖をもち、明確な教義の体系を築き上げ、膨大な経典を有する「創唱宗教」である。その点で、両者は根本的に性格を異にしており、それゆえ対立することなく、融合し、共存してきたのである。
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これは島田氏「日本人の神」入門からの引用だが、この“特定の開祖をもたず、教義や経典が明確ではない「自然宗教」”という形態は、現代の無宗教な、特定の信仰を持たず、しかしそれでいて特に宗教を否定するでもなく日常的な形骸化した宗教行事を行う日本人の姿に多少重なる部分があるように感じるのだが、どうだろうか。
仏教も特定の開祖を持つが、崇める対象は釈迦ではなくどちらかと言えば概念であり、知識宗教、哲学と言える。
だからこそ禅宗のように、マインドフルネスな行いも、信仰を必ずしも必要なく方法論だけで成立しかねない。


何事も原点に忠実でなければそれは間違いである、という原理主義が必ずしも正しいわけでは無いというのは、さまざまなところで証明されている気がする。

文化とは柔軟であるし、柔軟だからこそさまざまな情報を受容し融合し発展する。
頑迷で原理主義な、内向きの文化は発展を否定し発展することをしない。

自分が無宗教だから散骨でいいというひとでも、その死んだ父親や結婚相手が無宗教とは限らない。
相手のため、その対象のために行うこともある。
クリスマスを行うのも、自分のためというよりだれか相手のため、誰かが喜ぶからということもあるだろう。

葬式は死んだ人間ではなく残された人のために行うともいう。それは必ずしも信仰ではなく、精神的に、日常へ復帰するための儀礼として機能することもある。

近代化とともに「宗教」そのものが変容を遂げ、過去と現在をつなぐ精神的な紐帯が空洞化する。近代に合わせてつくりあげられた新しい「宗教」の虚妄性が明らかになるとき、われわれは「宗教」そのものを忌避するにいたる。そして空虚な「祭り」だけが残る。それはまさに「習俗」だ。
紀伊國屋書店スタッフによる書評的空間 : 2009年12月


多くの日本人は、無宗教なのではなく無信仰でしかない。
行事や習わし、伝統を守る精神は残っているから神や仏に対する信仰がなくても、形式的な儀礼は残る。
文化は時代に合わせて変容するし、その時代に合わせたその変容が正解でしかない。
原理主義を唱えるのは容易だが、その原点を果たしてどこに定めるのか曖昧なままそれを叫んでも意味がない。

習俗、社会風俗に入り込んだ宗教的な行為や行事を行なっているなら信仰を否定するな!に関して感じる違和感を言語化するとすればこんな感じだろうか。

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*1:そもそも人の顔を書いたものを踏むという生理的嫌悪はあっても